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喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、 生年不明 。宝暦5~8年(1755~58年)ごろ生まれる。 文化3年9月20日(1806年10月31日)没)。江戸時代の日本で活躍した浮世絵師の代表的な一人。
姓は北川、後に喜多川、幼名は市太郎、のち、勇助(または勇記)と改め、名は信美。初号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。
俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。
生年、出生地、出身地など不明。江戸市中、あるいは京、大坂、栃木・下野・川越であったとの諸説もある。鳥山石燕のもとで学び、根津に住んでおり、細判の役者絵や絵本を制作。
初作は安永4年(1775年)に北川豊章の落款で描いた中村座富本正本「四十八手恋所訳」の表紙辺りであろうといわれる。初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いていた。
また、天明8年(1788年)から寛政初期にかけては、狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫ゑらみ』、『汐干のつと』など植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描いていた。
その後、歌麿は、版元の蔦屋重三郎の援助を得て抜群の才を発揮し、彼の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。
ここで、歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。
寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。
全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。
「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。
やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。
歌麿はそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き、顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の顔の表情や内面を詳細に描くことが可能になった。
歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。
これに対して江戸幕府はたびたび制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し、美人画を書き続けた。文化1年(1804年)に、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことで、幕府の逆鱗に触れたときは、手鎖50日の処分を受けている。
当時、豊臣秀吉を扱うことは禁忌であり、また、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿が当代の将軍・徳川家斉を揶揄したものであったともされている。
この刑の終わった後、やつれた歌麿を見た版元たちは、歌麿の命は長くない、今の内に描いて貰おうと仕事が殺到した。しかし、歌麿は意欲を失い、絵は張りが無くマンネリ化、以前の緊張感も失われていた。
そして、過労が重なり、2年後の文化3年(1806年)、死去した。また、その死は、描きに描いて、その生涯を消耗し尽くしたのであったともいえる。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士。