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岡田 玉山(おかだ ぎょくざん、元文2年(1737年) - 文化9年(1812年)は、江戸時代中期から後期にかけての大坂の浮世絵師。
月岡雪鼎及び蔀関月の門人。大坂の人。名は尚友。通称は友助。字は子徳。金陵斎と号す。玉山は近世板刻密画の開祖といわれる。
安永から文化期にかけて、板刻本の下絵を特に得意とし寛政9年(1797年)刊行の『絵本太閤記』7編84冊、享和2年(1802年)刊行の『唐土名勝図会』など多くの挿絵を手がけた他、肉筆美人画にも手腕を発揮している。後に法橋に叙せられている。
「月下美人図」は、今日に伝わる数少ない玉山の肉筆美人画を代表する一品である。物思いにふけるようにたたずむ京の島原か大坂新町の遊女と思われる女性が身に着ける華麗な衣装から、この遊女が太夫と呼ばれる高位の遊女であると思われる。
その作風は月岡派の画風を土台にしており、丸顔の温雅な容貌はいかにも上方らしい。ただ、遊里に身を沈めた女性がその境遇に悲哀を抱いたような表情は、鈴木春信の錦絵「縁先美人(見立無間の鐘)」とも共通した雰囲気が感じられる。玉山の肉筆画では、このような浮世絵風美人風俗画の他に、漢画色の強い「阿房宮図」なども知られている。
その後、『絵本太閤記』は幕府の忌諱にふれ禁書となり、文化元年(1804年)5月16日、玉山作画の『絵本太閤記』に題材した錦絵のために喜多川歌麿、喜多川月麿、勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、十返舎一九らが処罰を受け、版元も板木没収の上、過料15貫文を課せられている。文化9年(1812年)死去。享年76。没年は文化5年(1808年)ともいわれる。
門人に石田玉山がいる。