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懐月堂 安度(かいげつどう あんど、生没年不詳)は、近世前期の日本の画家 。江戸時代初期に活躍した懐月堂派 (en) の頭領と見なされる浮世絵師である。
姓は岡沢(おかざわ)または岡崎(おかざき)と言い、俗称は出羽屋源七(でわやげんしち)。翰運子(かんうんし)とも号す。「安度」の正式な読みは不明で、「やすのり」とも読ませる。
江戸の生まれで、浅草蔵前に住んでいた。絵師・英一蝶に私淑した。宝永頃から正徳頃の時代に活躍。弟子たちを従えて工房を営み、吉原の遊女を題材にしたと思われる豊満な横顔の肉筆美人画を多く残した。
やや角張った顔立ち、広い額、切れ長の目、団子鼻、無造作な口など特徴のある安度の画風は、鳥居派・宮川派などといった同時代の他の浮世絵師のものと比べると、際立って独自のもので容易に区別ができる。肉太の筆致で描かれた豊満で大柄な、その画風から、前半が絵馬屋ではないかという説もある。
安度は肉筆浮世絵のみを手がけ、錦絵は描いていない。安度の作品は大半が遊女のひとり立ち姿を描いたものであったが、『遊女と禿図』(東京国立博物館所蔵)のように、2人の人物が描かれたものも、極めて稀に存在している。この作品では、遊女は体を大きく「く」の字に曲げ、禿に手を回して、その耳元へ何かを囁きかける様子を捉えている。
また、『川中島の図』(出光美術館所蔵)や『武田信玄像』(島根県立美術館所蔵)のような武者絵も手がけている。
安度は、蔵前の町内で金力があり、権勢も兼ね備えた豪商・栂屋善六(本名:善蔵)に接近して、善六を幕府御用達にしようと考え、巧みに大奥に取り入った。その折の通称「源七」こと安度は、正徳4年1月12日 (1714年2月26日)に江戸城大奥を震撼させた江島生島事件に黒幕として関わっており、江島たち主要人物のみならず安度までもが連座することとなって、伊豆大島へ流罪の身となった。
享保7年(1722年)5月、恩赦によって安度は許され、江戸へ戻ることができた。しかし、懐月堂派としての活動は、安度が流罪となったのち、次第に衰微していったと考えられる。
懐月堂直系の弟子には安知、度繁、度辰、度種、度秀らがおり、彼ら直系の弟子以外にも、正徳から宝暦(1711年から1764年)にかけて、懐月堂風の肉筆美人画を描いた浮世絵師は、十指に余るほど多く現れ、さらに宮川長春、奥村政信らにも多大な影響を与えた。
また、享保15年(1730年)中冬刊行の、露月撰『二子山』3冊、および、享保17年(1732年)中夏刊行、露月撰『倉の衆(あつまり)』3冊の2つの俳書に、懐月堂の名が見出されている。まず、『二子山』には、多数の専門絵師、素人絵師が挿絵を寄せているが、その中に、「懐月堂常仙自画(花押)」と署名した絵が1図、「常仙画(花押)」、「常仙圖(花押)」、「常仙書(花押)」と署名した絵がそれぞれ1図ずつ見出せるほか、詠句も載っている。
もう一つの、『倉の衆』にも、同様の体裁の中に、「懐月堂指水書(花押)」と署名した絵が4図見出せる。断定はできないが、2つの俳書とも露月の撰であること、花押が類似すること、そして、『倉の衆』には略画であるが懐月堂派風の立美人図も混じることから、この懐月堂常仙、懐月堂指水と懐月堂安度は同一人であると考えられる。
そして、俳諧師に志村常仙という人物がおり、これが安度と同一人物であり、俳諧への関与が認められることや常仙の生没年に照らし合わせて、延宝5年(1677年)に生まれて、宝暦2年(1752年)に76歳で没したとする説もある。 また、安度ら懐月堂派の絵師たちは、肉筆美人画の落款に必ず「日本戯画」と冠している。これは彼らが伝統ある大和絵の後継者であるということを誇示したのである。