※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。
全国の美術館の情報や絵画・彫刻・アートなど芸術作品と画家・作家の紹介
司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日))は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。
本名は安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、西洋道人と号す。
生まれつき絵を好み、宝暦11年(1761年)15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野洞春(美信)に学ぶ。しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、明和半ば頃おそらく平賀源内の紹介で宋紫石の門に入る。
ここで南蘋派の画法を吸収しつつ、紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵を描いた。ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、師事した順番は諸説あってはっきりしない。
後に洋風画を描くに至った。源内と接点があり、彼を通じて前野良沢や小田野直武に師事したとも言われている。享年72。墓所は豊島区西巣鴨の染井墓地、慈眼寺墓域。法名は桃言院快栄寿延居士。
安藤広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。(否定説あり。)
明和末年頃、鈴木春信の名前で錦絵を出していた。そして初期には鈴木春重名で、明和7年(1770年)に没した鈴木春信の贋作絵師として安永初年頃まで活動していた。春信に師事して、版下絵を描いていたとも言われる。
安永初年から末年にかけて次第に独り立ちし、蕭亭あるいは蘭亭の名で、肉筆画を残している。自著『春波楼筆記』によると、春信の死後、春信の落款で春信の偽絵を描いていたが、後に春重と署名するようになったと記されている。
春信の落款時代には、背景に極端な遠近法を使用し、浮絵の画法を取り入れていたが、春重落款の作品ではより春信風になっている。
日本における洋風画の開拓者としては、秋田の小田野直武(1746年 - 1785年)とともに重要な画家。直武の作品が、遠近法、明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、画材は伝統的な絵具と墨とを使用していたのに対し、江漢は荏胡麻の油を使用した油彩画を描いたことで特筆される。
江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して富士などの日本的な風景を描き、それを各地の社寺に奉納することによって、洋風画の普及に貢献した。現存の代表作の「相州鎌倉七里浜図」はもともと江戸の芝・愛宕山に奉納したもの。
社寺の壁などに掲げられる絵馬は傷みやすいものだが、この図は早い時期に社殿から取り外して保存されていたため、保存状態がよい。蝋油を使った蝋画の工夫などもしている。
日本最初の銅版画(エッチング)家でもあり、天明3年(1783年)その制作に成功した。
天文・地学、動植物など西洋博物学、自然科学に興味を持ち、日本に紹介した。『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』などといった啓蒙書も残した。
晩年人付き合いが煩わしくなり、文化10年(1813年)自分の死亡通知を知人達に送り逼塞していた。どうしても外出せねばならなくなり、案の定知人と遭遇するや返事もせず逃走するもごまかしきれず、「死人は声を出さぬ」と答えた(『石亭画談』)。
また、文化5年以降は九歳加算した年を記し世を欺いた。これは「九」という数字は、周易においては陽の極地を表し、『荘子』寓言編に「九年にして大妙なり」という言葉があることから、江漢は「九」に大悟の心境を込めて加算したと考えられる。