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鳥居 清長(とりい きよなが、 宝暦2年(1752年) - 文化12年5月21日(1815年6月28日)は、江戸時代の浮世絵師。鳥居派4代目当主。
鳥居派の代表的な絵師。鳥居清満の門人。江戸の書肆・白子屋関口市兵衛の子。19才より、清長を名乗り、安永(1772年‐1781年)年間に細判紅摺絵で、役者絵を多く残した。
安永7‐8年(1778年‐1779年)頃から次第に鳥居派風を脱し、春章らの似顔絵の影響を受けて、紅摺絵から細判の錦絵に変わるが、役者絵の制作は少なく、代わって中判の美人画と黄表紙の制作が増えてくる。
美人画は、初め春信・重政・湖龍斎の作風を学んでいるが、天明(1781年‐1789年)期になると、次第に諸家の影響を離れて、写生に基づく堅実な素描を元に独自の様式を創り上げ、天明期の美人画界を風靡した。美人画の背景に、現実の江戸風景を写実的に写したのは、清長が最初であるとされる。
師である清満没後、孫の庄之助が成長するのを待つ間、鳥居家4代目を代行した。時代的には鈴木春信と喜多川歌麿の中間の天明期に活躍した。
鳥居派は役者絵を専門とする画派だが、清長の本領はむしろ美人画にある。細身で繊細な春信の美人画に対し、清長は八頭身でどっしりとした体つきの健康的な女性像で知られる。「美南見十二候」や「風俗東之錦」、「当世遊里美人合」などの名作シリーズで一世を風靡した。
その他に、出語りの場面や、舞台面をそのまま取入れた大判役者絵も描き、一段とリアルな作品を残した。また、肉筆浮世絵も、数は多くないが、悉く優品で、彼の資質、力量を伝えている。特に「真崎の月見図」は代表作として知られている。
隅田川の上流の真崎の渡し辺りの茶店で床机に腰を掛け、満月の清光を浴びる女性たちを描いており、月の光は水に良くたとえられるが、その光が水量豊かな川面に広がっている背景の爽やかさが印象的な作品である。晩年になると、黄表紙、芝居本、絵本などに力を注いだ。
享年64才。墓所は墨田区両国の回向院。墓石は無く、過去帳のみ残る。法名は長林英樹居士。