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勝川 春英(かつかわ しゅんえい、宝暦12年(1762年) - 文政2年10月26日(1819年))は江戸時代の浮世絵師。
勝川春章の門人。姓・磯田、名・久次郎。九徳斎、旭徳斎と号す。江戸に生まれ、新泉和町の家主をしていた。同門の春好と競い合った春章門下の逸材であった。早くに春章門人となり、安永7年(1778年)に17歳で初作を描いている。
春章の弟子の中で最も活躍し、春英自身の門弟も非常に多い。師に倣って役者絵に秀で、役者の個性を摑むことでは師より一歩抜きん出ていた。
細判、間判の作品も多く見られ、雲母摺の大首絵「三代市川八百蔵」などは、写楽と相前後して、世に出している。
寛政7年(1795年)、都座、桐座、河原崎座の三座において忠臣蔵が競演されて江戸中が沸きあがると、春英は都座と桐座に取材、岩戸屋から「三代目沢村宗十郎の加古川本蔵」などを刊行している。
軽妙な味わいがあって、明るく飄逸な作風で春英の役者絵は芝居ともども人気を得た。また、武者絵、相撲絵も多く、さらに美人画も手がけ、狂歌本や、肉筆浮世絵も描いた。
所作事と呼ばれる歌舞伎舞踊を描いた美人画の「おし絵形」シリーズも、動きの中の一瞬の美をとらえた秀作である。
肉筆画では、美人画が多く、切れ長の眼に、顎の辺りにふくらみのある「張り」と、愛嬌ある容貌を具えている点が、春英美人の特色である。
春英の役者絵は、師の勝川春章の亡き後を継いで寛政前・中期に絶頂期を見せており、その画業は歌川豊国、東洲斎写楽にも影響を及ぼしている。春英には大首の三人像の作品もあり、大首絵における複数の人物の構図に新機軸を試みたのではないかとも考えられる。[要出典] 享年58。墓所は、台東区西浅草の善照寺にある。法名は釈春英。