※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。
全国の美術館の情報や絵画・彫刻・アートなど芸術作品と画家・作家の紹介
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Leonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日 – 1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。
猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。
兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいる。
甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいる。なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)の各項目に掲載されている系図を参照。藤田もこの系図に掲載されている。
藤田は子供の頃から絵を描き始め、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。
森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動した。
観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていた。1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選している。
なお、この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会って、2年後の1912年に結婚。新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田が妻を残し単身パリへ向かい、最初の結婚は1年余りで破綻する。
1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。
また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。
また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意した。
「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」
と藤田は自身の著書で語っている。
1914年、パリでの生活を始めてわずか一年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。
そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結婚をした。このころに初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月後には初めての個展を開くまでになった。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けた。すぐに絵も高値で売れるようになった。翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となった。
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立。以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。
彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも『Nu couché à la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、再び不倫の末に離婚。
1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。
2年後に日本に帰国、1935年に20数才離れた君代と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
帰国後は戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われる事となり、千葉県内の味噌醸造業者に匿われていた事もあった。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)に葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしている。40年以上を経た2009年4月2日に東京で、98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。
戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現している。
戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい二度と日本には戻らなかった。
フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語った。その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で書いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも述べている。
パリでの成功後、そして戦後と、生前の藤田はついぞ日本社会からは認めてもらえなかった。また君代夫人も没後「近代日本洋画シリーズ」等の、他の洋画家達と共同での画集刊行は断ってきた。近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになった。
大戦中のプロパガンダ芸術の画家たちの協力は、当時の時代背景からは大半の作家にとっては回避できない事柄であり、事実それを断ると公式な展覧会などを含む画壇からの実質的な追放や画材の供給がもらえない等の背景があった。
取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にある為軍関係者には知故が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素があった。
しかし、藤田は元々日本画壇に根ざし属して成功した人物ではなく、欧州で活動し成功していた為もあり、当時の日本人画家からは羨望を交えた非難中傷が主な理由で彼を日本では制作しにくい立場に追いやったことは否めない。
しかしそれは現在でも彼の第二の故郷ともいえるフランスや欧州の美術市場で十分な評価がされている以上美術的には正当な評価は確定したといえる。
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。これが藤田の絵の秘密であった。
さらに、面相筆の中に針を仕込むことにより均一な線を描いていたことも修復により判明した。
彼の作品は東京のブリヂストン美術館や箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館で見ることができる。関連図書にある「世界のフジタに世界一巨大な絵・・」の絵とは、平野政吉美術館所蔵の壁画「秋田の行事」(高さ3.65m・幅20.5m)のことである。晩年に手がけた最後の大作は、死の直に書き上げたランスの教会における装飾画である。
また、多くのエッセイを書き残している。彼の芸術に対する考え方、人生に対する取り組み方が興味深い。 死の直前までノートに書かれたモノローグは『腕一本・巴里の横顔』(講談社文芸文庫、2002年)に収められている。「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」