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熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は岐阜県中津川市付知町(旧:恵那郡付知)出身の画家。孤高の画家であり「画壇の仙人」と称される程であったが、二科展との繋がりはあった。熊谷孫六郎(初代岐阜市市長・衆議院議員)の三男。
東京美術学校出身の熊谷は、将来を嘱望された若手の一人であった。1909年(明治42年)の「文展」で入賞した自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、傑作と称された。しかし熊谷は、生活の為に絵を描くことはなかった。彼にとって絵は、書きたいときに描く、ただそれだけの気ままなものであった。
42歳で結婚。5人の子供に恵まれたが、絵を描こうとしない主の一家は、貧乏が続いた。熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われた。「作品さえできれば、何とか金に代えられる」と妻は言うのであった。周りの人からもいろいろ責め立てられた」と述懐する。
日々の食事に事欠き、次男陽が肺炎で幼くして命をなくした。亡骸を前に熊谷は陽の姿を描き始めた。しかし、息子の亡骸にさえ、描く対象としてしか見ていない自分に愕然とし、筆をおいた。十分な治療を受けさせず失った幼い命。それでも熊谷は、売る為の絵を描くことはできなかった。
絵の描けない熊谷が60歳近くになってから始めたのが、書や墨絵であった。線と余白だけで喜びも悲しみも表現する。その可能性に惹かれていく。
67歳の時、再び家族に不幸が起こった。長女の萬までも病気で21歳の若さでなくなった。熊谷はその悲しみを再び絵にした。お骨を抱いて焼き場から戻る、熊谷とその家族「ヤキバノカエリ」(1948年(昭和23年)~1956年(昭和31年))。
子供を失った悲しみが、陽の死の時とは全く違った筆致で表現されている。家族の顔には、眼も鼻も口も描かれていない。しかし、画面からは尊い命を失った悲しみがにじみ出てくるかのようであった。
この後、熊谷は東京豊島区の自宅から一歩も出なくなった。わずか15坪の小さな庭が彼の世界の全てになった。その小さな世界に息づく様々な草花や虫、そして小さな動物たち。熊谷は身近な命の輝きを見つめた。独特の絵の世界は、こうして完成した。
そこには熊谷の命を見つめる優しい眼差しがあふれている。一本の線と面に宿る大きな力。熊谷はその独特な画風も「下手も絵のうち」と表現している。熊谷は「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい」と語る。
写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。
轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。
4歳で死んだ息子・陽(よう)の死に顔を描いたもの(「陽が死んだ日」大原美術館蔵)、戦後すぐに20歳を過ぎて結核を患って死んだ長女・萬(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」岐阜県美術館蔵)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」個人蔵)なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。
自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家。作曲家の信時潔とは30代からの友人で、後に信時の娘と守一の息子が結婚するほど親しい間柄だった。一頃は絵を描くことをせず信時の資料を元に音の周波数の計算に熱中していた。
晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。守一にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年描かれた多くの油絵作品のモチーフは、ほぼすべてが熊谷邸の庭にあったものである。
熊谷様式とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品で、山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃のスケッチブックを広げて油絵にしていた。
同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと守一自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。線と面で区切られた小さな4号サイズの板には作品を見るものに【昆虫の目】を持たせてくれる。
愛知の資産家・木村定三が熊谷守一の作品に惚れ、買取の個展を開くなどし、熊谷の名は晩年にかけて広く日本の画壇に名を知られるようになった。木村定三が集めた熊谷のコレクションは100点を越え、その全てが現在は愛知県美術館に所蔵されている。晩年「これ以上人が来てくれては困る」と言い、文化勲章の内示を辞退したことでも知られた。
97年の生涯のうち、晩年の30年間は全く外出せず、わずか15坪の庭の自宅で小さな虫や花を描き続けた。面と線だけで構成された「赤蟻」(1971年)シンプルな油絵。対象を見続けたその独特な画風は、高い評価を受けた。