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和田 三造(わだ さんぞう、1883年3月3日 - 1967年8月22日)は、明治・大正・昭和期の日本の洋画家である。
生野銀山鉱業所の勤務医や校医を勤めた和田文碩と秀の四男として兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に生まれる。兄宗英が大牟田市の鉱山業に従事したため、13歳の時に一家をあげて福岡市に転居する。
大名尋常小学校を経て、1898年福岡県立尋常中学修猷館に進学するが、1900年、画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後上京して黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所し黒田清輝に師事。
次いで1901年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科に入学する。東京美術学校では青木繁や山下新太郎らと同期であった。
1904年東京美術学校を卒業し、1905年白馬会展で『牧場の晩帰』が白馬会賞を受賞する。1907年第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞する。この絵の中で小船の上に立つたくましい男のモデルは、和田が中学時代に通っていた玄洋社が運営する柔道場「明道館」の2代目館長河野半次郎といわれる。
更に、翌1908年の第2回文展においても『Rq燻』で2等賞(最高賞)を受賞する。1909年文部省美術留学生として渡欧し、フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究も行う。その帰途、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し、1915年に帰国する。
1917年文展審査員となる。以後、文展や、文展が改称した帝国美術院展覧会(帝展)に出品する一方で、装飾工芸や色彩研究にも力を入れ、1920年染色芸術研究所を設立。一方で日本画への関心も深めていった。
1927年帝国美術院(現・日本芸術院)会員となり、同年、我が国における色彩の標準化の必要性に着目し日本標準色協会を創立する。ここでの和田の色彩研究の成果は『色名総鑑』(1931年)などに表れている。
1932年東京美術学校図案科教授となる。1945年日本標準色協会を日本色彩研究所に改組し理事長に就任、1951年にはここで日本初の綜合標準色票『色の標準』を完成する。
1953年大映映画『地獄門』で色彩デザイン、衣裳デザインを担当し、この作品で翌1954年の第26回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞する。尚、『地獄門』は、1954年の第7回カンヌ国際映画祭においてもその色彩の美しさを高く評価され、パルム・ドール(最高賞)を受賞している。晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍し、1958年文化功労者に選ばれている。1967年8月22日死去。84歳。