麻生三郎

(あそう さぶろう)

麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23日 - 2000年(平成12年)4月5日 )は、東京都生まれの洋画家である。

武蔵野美術大学名誉教授。戦中戦後を通して焼けただれ、焦げ付いたような暗褐色に彩られた家族を中心とした人物像や自己の内面を解体デフォルメし、闇の中から浮かび上がるように描き出す作風で知られる。彫刻家の麻生マユは実娘。

経歴

東京都京橋区本湊町(現在の中央区湊)鉄砲洲の炭問屋麻生惣兵衛、喜代の三男として生まれる。実家は当時築地の居留区があった明石町にほど近く、下町でありながらモダンな雰囲気に影響され洋画を志したと述べている。

明治学院中等部在学中の1928年より、小林萬吾の設立した同舟舎洋画研究所にて本格的にデッサンを学びはじめ、1930年に太平洋美術学校選科に入学。ここで松本竣介や寺田政明らと出会い、長谷川利行や靉光との交流が始まる。

1933年に退学し、個人活動を開始。1936年に寺田政明らとエコール・ド・東京を結成。翌1937年の第一回エコール・ド・東京展に作品を発表した。

1938年2月、突如としてヨーロッパに出発し、フランス、ベルギー、イタリア各地をまわる旅に出る。しかし折しも第二次世界大戦へ向けて状況が悪化し始め、約半年後の9月に帰国した。[1]

帰国後は豊島区長崎にアトリエを構え、1939年には福沢一郎、北脇昇、寺田政明らと美術文化協会を結成。さらに1943年には寺田政明、松本竣介、靉光、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男と「新人画会」を結成。戦況が厳しくなり、軍部による抑圧の中、作品を発表し続けた。

1944年に召集を受け入営するものの、身体虚弱の為に兵役不適とされてすぐに帰されたという。また空襲によりアトリエを焼失し、多くの作品が失われた。

戦後、松本竣介、舟越保武と日動画廊にて三人展を行った後、1947年より自由美術家協会に参加[2]して戦後復興に尽力した。1950年頃から世田谷区三軒茶屋に自宅兼アトリエを構え、近所や少年期を過ごした隅田川界隈の素描作品を数多く残している。

1952年より1981年まで武蔵野美術学校にて教鞭をとり、後進の育成を手がけた。1959年第5回日本国際美術展優秀賞。1963年芸術選奨文部大臣賞受賞。展覧会としては1973年に東京都美術館で個展を、1994年には三重県立美術館、茨城県近代美術館、神奈川県立近代美術館を巡回する「麻生三郎展」等が開催されている。

2000年に87歳で死去。墓地は神奈川県川崎市多摩区南生田の春秋苑。

主な作品

  • 「自画像」(1937年)東京国立近代美術館 第1回美術文化協会展(1940年)出展作品
  • 「裸婦」(1939年)大川美術館
  • 「母子」(1948年)東京都現代美術館
  • 「母子のいる風景」(1954年)三重県立美術館
  • 「赤い空」(1956年)京都国立近代美術館
  • 「人」(1960年)神奈川県立近代美術館
  • 「胴体」(1966年)板橋区立美術館
  • 「大きい手」(1973年)福岡市美術館
  • 「まるいかたち」(1980年)茨城県近代美術館

麻生三郎の作品所蔵美術館