フィンセント・ファン・ゴッホ

(Vincent van Gogh)

作品

フィンセント・ファン・ゴッホ『自画像』(1887年)フィンセント・ファン・ゴッホ『自画像』(1889年)フィンセント・ファン・ゴッホ『芸術家としての自画像』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『タンギー爺さん』(1887)ロダン美術館フィンセント・ファン・ゴッホ『夜のカフェテラス』(1888)クレラー・ミュラー美術館フィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり』(1888)ノイエ・ピナコテークフィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり』(1888)損保ジャパン東郷青児美術館フィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホ『アルルの女 (ジヌー夫人)』フィンセント・ファン・ゴッホ『医師ガシェの肖像』(1890年)フィンセント・ファン・ゴッホ『悲しむ老人』(1893年)フィンセント・ファン・ゴッホ『ゴーガンの肘掛け椅子』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『パシアンス・エスカリエの肖像』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『ファン・ゴッホの椅子』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』フィンセント・ファン・ゴッホ『郵便配達人ジョゼフ・ルーラン』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1886)フィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』(1889)ニューヨーク近代美術館フィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホ『ばら』(1889)国立西洋美術館フィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホ『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』(1887)オルセー美術館フィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホ『ジャガイモを食べる人々』(1885)ゴッホ美術館フィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホフィンセント・ファン・ゴッホ『カラスのいる麦畑』(1890)ゴッホ美術館フィンセント・ファン・ゴッホ『ドービニーの庭』(1890年)フィンセント・ファン・ゴッホ『アイリス』(1889年)フィンセント・ファン・ゴッホ『アルルの跳ね橋』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『ファンゴッホの寝室』(1889年)フィンセント・ファン・ゴッホ『夜のカフェ』(1888年)フィンセント・ファン・ゴッホ『夜の白い家』(1890年)

※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。

フィンセント・ファン・ゴッホについて

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダの画家。名は、「ビンセント」「ヴィンセント」と表記されることもある。また、フランス語読みで「ヴァンサン」と表記されることもある。

概要

フランスのパリやアルルに居を構え、印象派や浮世絵の影響を受けた作品を描いた。ポスト印象派の代表的画家である。現在でこそ高く評価をされているが、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑(La Vigne rouge)』だった。人に贈った絵が、鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあった(『医師フェリックス・レイの肖像』)。1890年に銃で自殺。彼を終生援助した弟テオドルス(通称テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されている。

生涯

1853年、オランダ南部のベルギーとの国境に近い町ズンデルトに生まれた。祖父、父共に牧師だった。前年に生まれてすぐに死んだ兄と同じ名前を付けられた。幼い頃から性格は激しく、家族を含め、他人との交流に問題を抱えていた。

1869年から美術商として成功していた伯父のグーピル商会に勤め、熱心に働いた。また、1872年からは兄弟の中で唯一気の合った弟のテオと文通を始めた。この文通は何度か途切れるが、死に至るまで20年にわたって続けられた。商会のロンドンやパリの支店に勤めるが、失恋をきっかけに美術商への熱意を失う。勤務態度があまりにも悪かったため、1876年に商会を退職させられる。

牧師を目指し、貧しい人々のために献身的に活動を行うものの、あまりにみすぼらしい有様が牧師らしくないと言われ、1879年に伝道師の仮免許を剥奪される。その後もしばらく炭坑で伝道の補助を行う。

1880年に画家となることを決心し、ブリュッセルでデッサンの勉強を始める。1881年に実家に戻る。自宅に画室を作り、義理の従兄弟の画家アントン・モーヴにも指導を受ける。

1885年に実家を離れ、アントウェルペンの美術学校で学んだ後、1886年にパリに移住する。パリでは、フェルナン・コルモンの画塾で学び、ロートレックやエミール・ベルナール等と知り合った。特にロートレックはゴッホの数少ない理解者であった。

1888年に、ポール・ゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだった)。しかし不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、自分の左の耳たぶを切り取り、女友達に送り付けるなど奇行を始め、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神科病院に入院する(この事件に関して、ゴーギャンが剣でゴッホの耳を切断した可能性があるという新説を、2009年にドイツ人の歴史家が唱えた)。

1890年7月27日に、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃(リボルバーという説もある)の弾を腹部に受け、2日後に死亡した。37歳没。死ぬ前日には、テオに自分の芸術論等などを滔滔と話していたという。

なお、死因は一般には自殺と言われているが、自殺するには難しい銃身の長い猟銃を用いたことや、右利きにも関わらず左脇腹から垂直に内臓を貫いていることから、他殺説を唱える者もいる。

作品

ゴッホの初期作品は、ミレーの影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリではジャポニズムが流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの表現主義を予告するようなものになる。

また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また象徴主義的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。

日本での受容

ゴッホが日本において知られるようになったのは、1911年に武者小路実篤が文芸誌『白樺』において紹介したのが最初と言われる。1919年には山本顧彌太が『ひまわり』を購入し、日本に持ち込んでいる。戦後は劇作品で劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり公演した『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)の影響も大きい。

1996年、ゴッホの生涯を、単独の漫画で初めて紹介した『ゴッホ-太陽を愛した「ひまわり」の画家』(小学館版学習まんが人物館)が発売された。

ゴッホ作品の高騰

ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われるが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ない。

1987年に安田火災海上(現損保ジャパン)は『ひまわり』を約58億円で落札し、話題を呼んだ。現在は、損保ジャパン東郷青児美術館が所蔵している。

『医師ガシェの肖像』は、テオの未亡人ヨハンナによって、1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられる作品である。1990年5月15日にニューヨークのクリスティーズでの競売で、8,250万ドル(当時のレートで約124億5,000万円)で齊藤了英に競り落とされ、日本人による高額落札として話題となった。2010年現在でも、ゴッホ作品の最高落札額である。

近年では、2006年に『アルルの女(ジヌー夫人)』が4,033万ドルで落札されている。

日本におけるゴッホの表記と発音

  • オランダ語での発音を日本語で表記するのは難しい。
  • オランダ語の「g」は、日本語では表記不可能な発音である。日本語で表記するなら「ホッホ」がより近い。
  • オランダ語の「v」は「f」に近く発音される。よって「フィンセント」と「ヴィンセント」及び「ファン」と「ヴァン」については共に前者が近い。
  • 特に、「van」のvの前に無声音のtが立つため、「Vincent」のVよりも無声化する確率が高い。
  • そのため、「Vincent」を「ビンセント」「ヴィンセント」と有声音風にしておきながら「van」は「ファン」と表記されることもある。
  • ドイツ語の発音では、「フィンツェント・ファン・ゴッホ」と呼ばれる(「Goch」とも表記される場合がある)。
  • フランス語では「ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ」と発音する。
  • 英語風の「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」という表記もしばしば見受けられる。

映画

  • 『ヴァン・ゴッホ』 Van Gogh (1948)
    監督:アラン・レネ。フランスの短編映画。日本では劇場未公開。
  • 『炎の人ゴッホ』 Lust for Life (1955)
    監督:ヴィンセント・ミネリ、出演:カーク・ダグラス。アメリカ映画。ゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。原作はアーヴィング・ストーン『炎の人ゴッホ』(新版・中公文庫)
  • 『ゴッホ』 Vincent & Theo (1990)
    監督:ロバート・アルトマン、出演:ティム・ロス。神話化されたゴッホの物語の脱構築を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は(他の作品に比べれば)感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。
  • 『夢』 Dreams (1990)
    監督:黒澤明。エピソードの1つに、ゴッホの絵画世界の中に入り込んでしまう夢話がある。ゴッホを演じたのは映画監督のマーティン・スコセッシ。「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」という言葉はこの映画におけるセリフである。

手紙

  • 小林秀雄 『ゴッホの手紙』 新潮社、角川文庫、(新版「全作品集20」、新潮社) 読売文学賞受賞
  • 二見史郎・粟津則雄ほか訳 『ファン・ゴッホ書簡全集 (全6巻)』 みすず書房 元版1970年、新版1984年
  • 二見史郎編訳/圀府寺司訳  『ファン・ゴッホの手紙』 みすず書房 2001年
  • 硲伊之助訳 『ゴッホの手紙』 岩波文庫上中下-訳者は、アンリ・マティスの弟子で洋画・陶芸家
  • 戦前から戦後にかけ、木村荘八や式場隆三郎が翻訳出版した。

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