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ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro, 1830年7月10日 - 1903年11月13日)は、19世紀フランスの印象派の画家。
カリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島(サン=トマ)島にて、ボルドー出身のセファルディムの四兄弟の三男として生まれる。ピサロの両親はボルドーからこの地に来て小さな貿易雑貨商をしていた。少年時代をこの島で過ごしたピサロは1841年、11歳の時フランスに渡り、寄宿舎制の学校に通うが、1847年ふたたび帰郷。しばらくは家業を手伝っていたが、画家志望を断ち切りがたく、1855年に再びフランスに戻った。
ピサロは、パリ万国博覧会の美術展でコローやクールベの作品に感銘を受けたという。特にコローの作品には感動したらしく、実際にこの先輩画家のもとを訪れたりもしている。パリでは画塾アカデミー・シュイスに学び、そこでモネと知り合う。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。1870年には普仏戦争を避けてロンドンへ渡り、現地で落ち合ったモネとともにターナーらの作品を研究した。
ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして最後の第8回展(1886年)まで、毎回参加しており、計8回の印象派展に欠かさず出品した、ただ一人の画家である。
印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたという。生来気難しく、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロを師と仰ぎ、しばしば共同制作をし、マティスとはしばしば印象主義について熱心に討論した。ピサロは1885年頃から90年まで、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックの影響で点描画法を試みている。
晩年はパリ郊外のエラニーに住み、描くのに時間がかかり感情に追いつけないとして点描法を放棄し、風景だけでなくピョートル・クロポトキンらのアナキズムの影響を受け、農村を舞台にした人物画を多く描くようになった。生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余り。
息子リュシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863年-1944年)も画家・木版画家。ポントワーズには彼の名を冠した美術館が建てられている。