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シャルル・ルブラン(Charles Le Brun, 1619年2月24日 - 1690年2月22日)はフランスの画家 、室内装飾家、美術理論家。ルイ14世の第一画家としてヴェルサイユ宮殿、ルーヴル宮殿等の内装を担当。王立絵画・彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)やゴブラン工場の設立運営にも関わり、17世紀フランス工芸・美術界に強い影響を与えた。
1619年2月24日パリで彫刻家の家に生まれる。1632年フランソワ・ペリエに絵画を学び、その後ルブランの才能を認めたセギエにより、1634年シモン・ヴーエの工房へ預けられる。1638年にはすでに宮廷画家としてリシュリューから最初の注文を受けていたが、1642年セギエの経済的支援により、プッサンと共にローマへ渡り、4年間プッサンの下で最先端の美術を学んだ。
1658年よりルブランは、建築家ルヴォー、造園家ルノートルと共に財務卿ニコラ・フーケが所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手した(1661年完成)。ヴォー=ル=ヴィコント城はこの3人による初めての共同作品であり、彼らがこの城のために造ったあらゆる景色、製造物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりである。彼らはフーケの失脚後、ヴェルサイユ宮殿を造った。
ルイ14世は、ルブランのヴォー=ル=ヴィコント城での仕事や、王が依頼したアレクサンドロス大王の歴史画を賞賛、1662年、ルブランは王の第一画家として爵位と年間12,000リーブルの年金を与えられた。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言した。
ルブランは、組織のリーダーとしての才能があり、アカデミーや王立工場の設立のため中心的な役割を担い、それぞれの要職を歴任した。
17世紀前半パリでは、中世から続くギルドの既得権を守るため、ギルドに属さない宮廷美術家の活動は制限されていた。1646年にローマから帰国したルブランは、他の宮廷美術家と共に、ギルドからの自由を目指し、ギルドに対抗する拠所として、1648年王立絵画・彫刻アカデミーを設立した。
1660年ルブランはコルベールと共にゴブラン工場の設立に貢献し、工場の責任者となる。彼らが設立したゴブラン工場は、初めはタペストリーだけでなく、王宮で必要なあらゆる什器家具を製造する学校であった。
1661年王立絵画・彫刻アカデミーの保護副会長に選任されたコルベールは、アカデミーをギルドに代わって美術家を支配し、絶対王政と重商主義政策に奉仕する機関として再編、1663年ルブランを学長に推薦した。そこでルブランはアカデミズムの基準を作り、アカデミーの発展のために尽くした。彼らは、1666年パリのアカデミーの支部としてローマにアカデミー・ド・フランスを設立した。
コルベールの死後、コルベールの政敵であったルーヴォワが公共事業の最高責任者を継いだ。王は引き続きルブランを支持したが、ルーヴォワは、コルベールのお気に入りであったルブランを冷遇した。しかしルーヴォワの思惑に反し、ルブランはアカデミーの学長に再選される。
ルブランは1690年2月22日パリの私邸で病没した。
ルブランは、彼が指導したゴブラン工場とアカデミーを通し、フランスの工芸、美術界全体を支配、フランスで製造されたあらゆる製品に、彼の豪華で強烈な個性を刻み込んだ。彼はルイ14世様式の生みの親であり、彼の死後何世紀にも渡ってフランス人の趣味傾向に影響を与えた。