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フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日)はフランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。
1798年、パリ近郊のシャラントン(現在のサン=モーリス)に生まれた。父は外交官シャルル・ドラクロワだが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーランが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある。
新古典主義の画家ゲランに入門し、1822年『ダンテの小舟』で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選した。1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。
グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。1830年の七月革命に際しては、有名な『民衆を導く自由の女神』を制作している。この絵画は彼の肖像と共に、旧フランス・フランの100フラン紙幣に描かれたこともあった。
1832年、フランス政府の外交使節に随行する記録画家としてモロッコを訪問した。1834年の『アルジェの女たち』は、モロッコ旅行の際のデッサンをもとに制作したものである。1830年代以降は、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛け、1863年に死去するまで旺盛に制作を続けた。
テオドール・ジェリコーに影響を受けており、彼の夭折を嘆いた。アカデミー・デ・ボザール(Académie des beaux-arts)にドラクロワが入会を許されたとき、ロマン主義の代表格ドラクロワと並び称された新古典主義の主導者たるドミニク・アングルは「私はこの愚かな世紀と決別したい。」と述べた。しばしば劇的な画面構成と華麗な色彩表現は、ルノワールやゴッホなど多くの画家たちに影響を与えた。
1822年に始まり、ジュール・ヴェルヌと共にノートが失われて1824年に中断、1832年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文字通りの傑作である。そこには絵画、詩、音楽についての考えが書き留められている。 そこにはジョルジュ・サンド、 ショパン、 シャブリエ等との議論が記録されている。それは単に画家の生活や彼の不安についてにとどまらず、19世紀半ばのパリジャンの生活の日々の証言になっている。
ドラクロワの日記の初版はPlon Nourrit etCieから1893年5月から1895年5月まで3巻で出版された。第1巻は1823年から1850年、第2巻1850年から1854年、第3巻は1854年から1863年である。日記の前に美術評論家ポール・フラ(Paul FLAT)によるドラクロワの研究と3つの自画像が掲載され、モロッコ旅行のノートのファクシミリ(第1巻 166ページ)も掲載された。
ドラクロワは美術辞典や絵画についての記事も書いている。