ギュスターヴ・クールベ

(Gustave Courbet)

作品

ギュスターヴ・クールベ『ノルマンディーの海岸』1872- 75 ワシントン・ナショナル・ギャラリーギュスターヴ・クールベ『村の貧しい女』ギュスターヴ・クールベ『オルナンの埋葬』1849 オルセー美術館ギュスターヴ・クールベ『画家のアトリエ』1854-55 オルセー美術館ギュスターヴ・クールベ『Self-portrait with black dog』1842ギュスターヴ・クールベ『Portrait of Charles Baudelaire』1848-1849ギュスターヴ・クールベ『The Hammock』1844ギュスターヴ・クールベ『After Dinner at Ornans』1849ギュスターヴ・クールベ『Farmers of Flagey on the Return From the Market』1850ギュスターヴ・クールベ『Stone-Breakers』1849ギュスターヴ・クールベ『Les Bas Blancs, (Woman with White Stockings)』ca 1861 (Barnes Foundation)ギュスターヴ・クールベ『Femme nue couchee』1862ギュスターヴ・クールベ『The Origin of the World』1866ギュスターヴ・クールベ『Bonjour, Monsieur Courbet』1854ギュスターヴ・クールベ『The Wave』1870ギュスターヴ・クールベ『Cliffs at Etretat, After the Storm』1870ギュスターヴ・クールベ『Stream in the Jura Mountains (The Torrent)』1872-3, Honolulu Academy of Artsギュスターヴ・クールベギュスターヴ・クールベ『Die Berghütte』ギュスターヴ・クールベ『Forest in Autumn』1841ギュスターヴ・クールベ『The Grain Sifters』(1854)ギュスターヴ・クールベ『Blick auf Frankfurt』(1858)ギュスターヴ・クールベ『La Roche de Dix Heures』(1855)ギュスターヴ・クールベ『Proudhon et ses enfants』(1865) Proudhon and his childrenギュスターヴ・クールベ『Dorfausgang im Winter』(1865-1870)ギュスターヴ・クールベ『Mädchen an der Seine』 (1856)ギュスターヴ・クールベ『Nauenburger See』(1875)ギュスターヴ・クールベ『Selfportrait at the age of about 30』ギュスターヴ・クールベ『Zélie Courbet』 (1847)ギュスターヴ・クールベ『Portrait of Countess Karoly』(1865)ギュスターヴ・クールベ『Die Badende』(1868)ギュスターヴ・クールベ『The Source』(1864)ギュスターヴ・クールベ『Girl with Terns』(1865)ギュスターヴ・クールベ『Juliette Courbet』(1873-1874)

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ギュスターヴ・クールベについて

ギュスターヴ・クールベ(クルベ) (Gustave Courbet, 1819年6月10日 - 1877年12月31日) は、フランスの写実主義の画家。

生涯

  • 1819年、スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の山の中の村、オルナンに、裕福な地主の子として生まれる。
  • 1831年、オルナンのカトリック系中学校に入学し、そこで基本的なデッサンを学ぶ。
  • 1837年、王立の高等学校に入学する。そのかたわら画家フランジューロのもとで学ぶ。
  • 1840年、21歳の時にパリへ出て、ソルボンヌ大学法学部に入学するが、本人を法律家にさせたかった父親の意図に反し、彼自身は画家を目指し、アカデミー・スイスに通い、ルーヴル美術館で巨匠たちの作品を模写した。
  • 1844年、『黒い犬を連れたクールベ』がサロンに入選しているが、これは当時の画家としては非常に遅いデビューである。
  • 1845年、『ギタレロ』がサロンに入選。
  • 1846年、『革のバンドをした男』がサロンに入選。
  • 1849年、『オルナンの食休み』がアングル、ドラクロワの二人に評価され、それがもとで国家が買い上げることになり、リール美術館に所蔵された。
  • 1851年、『埋葬』を出品するが、批判をうける。
  • 1853年、サロンで批判をうけた『水浴びする女たち』、『眠る糸紡ぎ女』が美術愛好家のアルフレッド・ブリュイヤスに購入される。以後、彼はクールベの後援者となる。
  • 1855年、パリにおいて世界で2番目の万国博覧会が開催された。クールベは、この万国博覧会に大作『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しようとするが、彼自身が描いた他の作品は審査を通過したにも関わらず、これらの大作は落選してしまった。そこでクールベは、後援者ブリュイアスに資金を仰ぎ、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、「ギュスターヴ・クールベ作品展。入場料1フラン」という看板を立て、1855年6月28日から公開した。当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だと言われている。また、この個展の目録に記されたクールベの文章は、後に「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。「レアリスム宣言」において、クールベは「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」と言っている。
  • 1858年、ドイツに数カ月滞在し、『フランクフルトの夫人』などを制作する。
  • 1870年、パリ・コミューンに参加し、反乱に荷担したことで投獄される。
  • 1873年、スイスに亡命する。
  • 1877年、亡命先で58歳の生涯を閉じた。なお、オルナンの生家は現在クールベ美術館になっている。

代表作『オルナンの埋葬』と『画家のアトリエ』

今ではクールベの代表作とされている、大作『オルナンの埋葬』も、発表当時の評判はさんざんであった。この絵にクールベが付けた題名は『オルナンの埋葬に関する歴史画』というものだった。当時のフランスの人々にとって「歴史画」とは、古代の神々、殉教者、英雄、帝王などを理想化された姿で描いた格調高い絵画のことであった。

これに対し、オルナンという、山奥の田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上の大事件のように扱い、このような巨大な画面(縦約3.1メートル、横約6.6メートル)に表して「歴史画」と称するのは当時としては常識はずれのことだった。

もう一つの代表作『画家のアトリエ』も大作である(縦約3.6メートル、横約6メートル)。この作品には「私のアトリエの内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的寓意」という長い副題が付せられている。

「寓意画」とは、たとえば「愛」「真実」「信仰」「死」のような目に見えないもの、形のないものを擬人化したり、静物画で表したりする、西洋絵画の伝統的な主題の一つであるが、クールベは、アトリエで制作する自分自身の姿と、周囲に集まる30人ほどの人々を描写したこの絵を「寓意」だと言っている。

画中に描かれた人物たちは、全員が何らかの「寓意」を表しているとされ、おおむね画面の向かって右半分はクールベのレアリスム絵画を理解し支持する人々のグループであり、画面左側の人々は、クールベの芸術を理解しない不幸で悲惨な人々だと理解されている。

クールベは、上記2作品のようなグループ肖像画のほか、森の中の動物を主題にした風景画や、官能的な裸婦像などにも傑作を遺している。

代表作

  • 『オルナンの埋葬』(1849年)(オルセー美術館)
  • 『画家のアトリエ』(1855年)(オルセー美術館)
  • 『世界の起源』(1868年)(オルセー美術館)
  • 『こんにちは、クールベさん』(1854年)(モンペリエ、ファーブル美術館)
  • 『女とオウム』(1866年)(メトロポリタン美術館)
  • 『石割り人夫』(第二次大戦中ドレスデン爆撃で焼失)

ギュスターヴ・クールベの作品所蔵美術館