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ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780年8月29日 - 1867年1月14日)は、フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を引き継ぎ、古典主義的な絵画の牙城を守った。
ラファエロに対する極めて高い評価、入念に構成された調子の緊密な諧調、形体の幾何学的解釈など、師であったギョーム・ジョセフ・ロックの影響が濃厚。職務に追われた繁忙な時期にも屈指の傑作を描き上げている。
ファイナルバーニッシュをも念頭に置いた平坦なテクスチャーは有名。入念に組み立てられた文理・テクスチャーと徹底的に研鑽された描線、そして緊密な調子の諧調によって成立する空間は、端正な様式美を湛えている。この様式美はセザンヌによって「肉体を全く描かずに済ませた」と批判されるほど徹底している。
アングルの美術史理解はアングルの作品群から伺い知れるように公汎であり、且つ結束性が高く、加えて非常に示唆的である。顔料やバインダーの運用方法もまた多様であり、数百年の隔絶がある巨匠達の作品の研究にも余念がなかった。その研究の成果として組織的且つ合理的な方法を制作と言説によって的確にのこしている。
他方では、ポスト印象主義者たちやキュビスト、現代美術家の根底的な方法やアイデアに決定的な影響を与えており、アングル芸術の影響範囲、射程は底知れないものがある。アングルの作品に対する脚注は美術作品によるものを含め未だに途絶えることが無い。
アングルの作品、その個性は、同時代の体制派、反体制派の必ずしも芳しくない評価だったにもかかわらず、アングルの影響は非常に甚大で、彼に先行する画家と彼に続く画家の代表作にさえ決定的な影響を与えた事例も少なくない。
フランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに装飾美術家の子として生まれる。父親は美術家というよりは職人で、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手掛けていた。アングルも幼少期から絵画とともに音楽も学んでおり、ヴァイオリン奏者としての一面もあった。実際、ニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を結成し、彼のスケッチを残している。
アングルは12歳の時、トゥールーズのアカデミーに入学。1797年パリに出て、新古典派の巨匠、ダヴィッドのアトリエに入門する。1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞した。
ローマ賞受賞者には、国費でのイタリア留学が許可されたが、アングルの場合は、当時のフランスの政治的・経済的状況のため留学が延期され、1806年にようやくイタリアへ向かっている。その後アングルは1824年までの長期間イタリアに滞在し、1820年まではローマ、以後1824年まではフィレンツェで活動している。
この間、ラファエッロ、ミケランジェロなどの古典を研究し、生活のために肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していた。有名な『浴女』(1808年)、『グランド オダリスク』(1814年)などはこの時期の作品である。
長いイタリア滞在の後、1824年、フランスに帰国。翌年レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員にも推されている。10年ほどの母国での活動を経て、1834年(1835年とも)再びイタリアへ向かった。ローマでは同地のフランス・アカデミーの院長を務めた。
1841年再びパリへ戻る。この頃のアングルは祖国フランスでも押しも押されもせぬ巨匠と目され、1855年のパリ万国博覧会においてはアングルの大回顧展が開催された。代表作の1つ『トルコ風呂』は、最晩年の1862年の制作である。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描きこんだこの作品は、当時82歳の画家がなお旺盛な制作欲をもっていたことを示している。
アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えた。その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成した。その作風は、イタリア・ルネサンスの古典を範と仰ぎ、写実を基礎としながらも、独自の美意識をもって画面を構成している。
『横たわるオダリスク』に登場する、観者に背中を向けた裸婦は、冷静に観察すると胴が異常に長く、通常の人体の比例とは全く異なっている。同時代の批評家からは「この女は脊椎骨の数が普通の人間より3本多い」などと揶揄されたこの作品は、アングルが自然を忠実に模写することよりも、自分の美意識に沿って画面を構成することを重視していたことを示している。
こうした「復古的でアカデミックでありながら新しい」態度は、同時代のダヴィッドなどのほか、近現代の画家にも影響を与えた。印象派のドガやルノワールをはじめ、アカデミスムとはもっとも無縁と思われるセザンヌ、マティス、ピカソらの画家にもその影響は及んでいる。
当時発明された写真が「画家の生活を脅かす」として、フランス政府に禁止するよう抗議した一方、自らの制作に写真を用いていたことでも知られる。