![ヴィジェ=ルブラン『ガリア服を着た王妃マリー・アントワネット』1783年](https://art.xtone.jp/artist/assets_c/2010/12/louise_vigee_le_brun1-thumb-120x152-929.jpg)
![ヴィジェ=ルブラン『麦藁帽子をかぶった自画像』1782年](https://art.xtone.jp/artist/assets_c/2010/12/louise_vigee_le_brun2-thumb-120x166-931.jpg)
![ヴィジェ=ルブラン](https://art.xtone.jp/artist/assets_c/2010/12/louise_vigee_le_brun3-thumb-120x144-933.jpg)
![ヴィジェ=ルブラン『フィレンツェで描かれた自画像』1790年](https://art.xtone.jp/artist/assets_c/2010/12/louise_vigee_le_brun4-thumb-120x153-935.jpg)
![ヴィジェ=ルブラン](https://art.xtone.jp/artist/assets_c/2010/12/louise_vigee_le_brun5-thumb-120x146-937.jpg)
![ヴィジェ=ルブラン](https://art.xtone.jp/artist/assets_c/2010/12/louise_vigee_le_brun6-thumb-120x146-939.jpg)
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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun, 1755年4月16日 - 1842年3月30日)は、18世紀の最も有名なフランス人女流画家である。
画家ルイ・ヴィジェの娘としてパリで生まれ、親から最初の絵画教育を受けたが 、ガブリエル・フランシス・ドワイエン、ジャン=バティスト・グルーズ、クロード=ジョセフ・ヴェルネ他、当時の大家たちからの助言の方が彼女のためになった。彼女は10代の早い時期に、すでに職業として肖像画を描いていた。アトリエが無許可営業のため差し押さえられてから、組合サロンに彼女の作品を喜んで展示した聖ルカ組合に申し込み、1774年10月25日に聖ルカ組合の会員になった。
1776年に、画家で画商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。多くの貴族の肖像画を描き、画家として成功した。マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれ、次の数年間ヴィジェ=ルブランは王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く依頼され、王妃を満足させた。王妃とヴィジェ=ルブランは画家と王妃を超えた友人関係を築いていたといわれる。
1781年にヴィジェ=ルブランは夫と共にフランドル(現ベルギー)とオランダに旅に出た。フランドルの大家の作品がルブランを刺激し、新しい技法を試みさせた。その場所で、ルブランは後のオランダ王ヴィレム1世を含む、数名の貴族達の肖像画を描いた。
1783年3月31日、ヴィジェ=ルブランはフランスの王立絵画彫刻家アカデミーの会員に、歴史画家として迎えられた。女流画家アデライド・ラビーユ=ギアールも同じ日に入会が認められた。ヴィジェ=ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを管理する男性達に反対されたが、結局、彼らの主張はルイ16世の命令により覆された。マリー・アントワネットが自分のお抱え画家のために、夫に相当な圧力をかけたからである。同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーではなく、女性同士が比較されがちになった。
フランス革命の最中、王族が逮捕された後、ヴィジェ=ルブランはフランスから逃れ、数年間をイタリア、オーストリア、ロシアで生活し、画家として働いた。そこでは貴族の顧客を扱ったそれまでの経験が役に立った。ローマでは作品が批評家から大絶賛され、ローマのアカデミア・ディ・サン・ルカ(Accademia di San Luca)の会員に選ばれた。ロシアでは貴族から歓迎され、女帝エカチェリーナ2世の皇族一員を多数描いた。ロシア滞在中にヴィジェ=ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの会員になった。
第一帝政期にヴィジェ=ルブランはフランスへ戻ったが、またヨーロッパ上流階級からの引く手あまたの中、イギリスを訪れ、バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描いた。1802年には帝政時代のフランスに帰国し、ナポレオン・ボナパルトの妹の肖像画を描いているが、ナポレオンとの折り合いが悪く、1807年にはスイスに赴き、ジュネーヴのSociété pour l'Avancement des Beaux-Artsの名誉会員になった。フランスが王政復古するとルイ18世に手厚く迎えられ、フランスを安住の地とした。
ヴィジェ=ルブランは1835年と1837年に回想録を出版した。それはロイヤル・アカデミーが支配した時代の終わりにおける芸術家の育成について、興味深い視点を提供した。
その後もヴィジェ=ルブランは、旺盛な創作活動を続けた。50代でイル=ド=フランス、イヴリーヌ県のルーヴシエンヌに家を購入し、1814年の戦争中にその家がプロイセン軍に押収されるまでそこに住んだ。その後彼女は、1842年3月30日に没するまでパリに留まった。ヴィジェ=ルブランの遺骸はルーヴシエンヌへ引取られ、住み慣れた家の近くの墓地に埋葬された。
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの墓碑銘は“Ici, enfin, je repose…”(ここで、ついに、私は休みます…)であった。
ヴィジェ=ルブランは18世紀の最も重要な女性芸術家だと考えられている。彼女は660の肖像画と200の風景画を残した。優雅な自画像もよく知られる。個人コレクションに加え、彼女の作品はロンドンのナショナルギャラリーのような欧米の主要な美術館で見ることが出来る。
画家としては名声を博したが、夫は賭博好きであり、一人娘も長じてから素行が悪かったなど、家庭的には恵まれなかった。