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ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748年8月30日 - 1825年12月29日)は、フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。
1748年、パリに商人の子として生まれた。9歳の時、父親は決闘で亡くなっている。ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェはダヴィッドの親戚(母の従兄弟)であった。当時50歳代だったブーシェは弟子を取っておらず、彼の紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアン(1716年 - 1809年)という画家にダヴィッドは師事する。
長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774年『アンティオコスとストラトニケ』で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得た。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては遅いデビューである。
ローマ賞受賞者は、国費でイタリア留学ができる制度になっており、ダヴィッドも翌1775年よりイタリアへ留学した。同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。
ダヴィッドは1780年までの約5年間、イタリアで古典絵画の研究に没頭する。こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていく。ルイ16世注文の『ホラティウス兄弟の誓い』(1784年)は最初の国王注文作であり、「新古典派宣言」とも見なされる記念碑的作品である。
1789年、フランス革命が勃発するが、このころのダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与していた。バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっており、1792年には国民議会議員にもなっている。1793年には革命家マラーの死を描いた『マラーの死』を制作している。
1794年にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、一時期国民公会議長もつとめている。ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、一時投獄された。この時、自画像と唯一の風景画を残している。
1800年にはナポレオンをも虜にしていたレカミエ夫人に、愛人への贈り物として肖像画を依頼され、『レカミエ夫人』を制作したが、本人に気に入られず、未完成に終わってしまったという(その後、夫人は彼の弟子のフランソワ・ジェラール(英語)に肖像画を依頼し、彼の絵画はドミニク・アングルが現在の形にした)。その後、ナポレオン・ボナパルトの庇護を受けて復活した。
1804年にはナポレオンの首席画家に任命されている。縦6.1メートル、横9.3メートルの大作『ナポレオンの戴冠式』は1806年から1807年に描かれたものである。ナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、1816年にブリュッセルへ亡命し、9年後の1825年に同地で時代に翻弄された77年の生涯を終えた。
ルイ16世の処刑に賛成票を投じたことが災いし、彼の遺体はフランスへの帰国を許されなかったが、心臓が現在ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。