ジャン=フランソワ・ミレー

(Jean-François Millet)

作品

ジャン=フランソワ・ミレー『種まく人』1850 ボストン美術館ジャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレー『晩鐘』1857-59 オルセー美術館ジャン=フランソワ・ミレー『落穂拾い』1857 オルセー美術館ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』1864 オルセー美術館ジャン=フランソワ・ミレー『落穂拾い』1857 オルセー美術館ジャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレージャン=フランソワ・ミレー

※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。

ジャン=フランソワ・ミレーについて

ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet, 1814年10月4日 - 1875年1月20日)は、19世紀のフランスの画家。

生涯と作品

パリの南方約60キロのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称している。ミレーのほか、テオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどがバルビゾン派の代表的な画家であり、カミーユ・コローなども先駆者に数えられる。

バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれた。ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されたのは1933年(昭和8年)のことであった。1977年(昭和52年)、その『種まく人』がサザビーズのオークションで競り落とされ、日本に請来された時は大いに話題になった。

1814年、フランスノルマンディー地方ラ・マンシュ県の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。8人兄弟の長男、父は農民であり村の教会の合唱指揮者でもあった。大原美術館にあるパステル画『グレヴィルの断崖』は、晩年の1871年頃の制作ではあるが、故郷の海岸の風景を描いたものである。

19歳の時、グリュシーから十数キロ離れたシェルブールの街で絵の修業を始め、22歳の1837年、パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュ(1797-1856)に師事する。デッサンや模写のほか、聖書や神話など画題となる古典文学にも学ぶ。

26歳の時、肖像画がサロン(官展)に初入選するが、奨学金が停止されていたため、生活は貧く肖像画や裸体画を描いた。この頃の画風はマニエル・フルーリ(華やかな手法)と評されており、繊細で柔らかなタッチと明るい色彩が特徴で、神話画などを多く手がけている。

1841年、シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚しパリに住むが、彼女は3年後の1844年に肺結核により病死する。1846年には同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生。このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことであるが、それ以前の1849年、パリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーはパリの南方約60キロの、フォンテーヌブローの森のはずれにあるバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。

この頃には共和国政府からの依頼もあり、経済的にも安定して農民画に専念し、『種まく人』をサロンへ出品するのは翌1850年のことである。ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などの代表的農民画は、バルビゾン移住後の作品である。

2つの『種まく人』

ミレーの代表作のひとつである『種まく人』とは、晩夏に麦の種を蒔く農民にミレーがインスピレーションを受け、ヨハネ伝12.24でキリストが自分を「麦(信仰)の種」、神を信仰という「種」を蒔く人に喩えた話を絵画化したものである。

蒔かれた種は芽吹かないかも知れない。しかしたった一粒の「キリスト」という種が芽吹いただけでキリスト教という信仰が根付いた。神がその希望を持ってキリストという種を蒔いたように、農民が芽吹きに望みをかけて麦の種を蒔く、その姿をミレーは神の姿に重ねてこの絵を描いた。後には岩波書店がその絵から「思索という種を蒔く」意味でこの絵を後付に採用するのである。

ミレーは、画面のサイズから構図までほとんど同じと言ってよい『種まく人』の絵を2枚描いた。2枚の『種まく人』のうち1枚はボストン美術館にあり、もう1枚は山梨県甲府市の山梨県立美術館に所蔵されている。どちらかが模写であるのではなく、どちらも本物である。今まで複数回、2枚並べて展示され、公開されたことがある。

ボストンの絵は、ウィリアム・モリス・ハント(1824-1879)から日本美術の収集家としても知られるクインシー・A・ショーの旧蔵で、1917年にボストン美術館に入っている。

一方、山梨県立博物館所蔵の絵は、ミレーの伝記作家でもあった内務省の役人アルフレッド・サンシエから、アメリカの鉄道王W.H.ヴァンダービルトに移り、フィラデルフィアのプロビデント・ナショナル銀行の所蔵を経て、1977年、日本へもたらされたものである。

2つの絵は細部までほとんど同じと言ってよいくらい似ている。しいて言えば、ボストンの絵の方が人物の輪郭線がはっきりしているのに対し、山梨の絵は絵具が厚塗りで、筆使いが荒々しく、背景の黄色が目立つのが特色であるが、優劣は決めがたい。

1850年のサロンに出品されたのがどちらの『種まく人』であったのかについては議論があり、山梨県立美術館学芸員井出洋一郎によるX線調査では山梨作品の下層に下絵が認められ、1985年に開催されたミレー展に際したシンポジウムにおいて、山梨作品はボストン作品より後に製作された可能性を指摘し、サンシエや美術史家モロー・ネラトンの伝記にサロン出展作は2番目の製作であると記されていることから、山梨作品がサロン出展作であると推測している。

ミレーの農民画は同時代や後世の画家に影響を与え模写されているが、特にフィンセント・ファン・ゴッホは評伝を通じてミレーに親しみ、自分の作品のなかでもミレーのモチーフや構図をそのまま取り入れている。ゴッホの「種をまく人」(1881年、ゴッホ美術館)はミレーの作品を正確に模写しつつ、ミレーとは異なる明るい色彩が加味された作品となっている。

エピソード

  • ある日散歩をしていると、美術商の店先に掛けてある彼が売った裸体画を2人の男が眺めているのに出くわした。
「この絵は誰が書いたんだい?」
「ミレーって男さ」
「ミレー?どんな絵描きだい?」
「いつも女の裸ばっかり描いているやつさ」

2人の男はそう会話して立ち去っていった。それを聞いていた彼は愕然とした。お金の為に仕方なくとは言えども、裸体画ばかり書いているせいで、世間に低級な好みを狙っている画家であると評価されているのだと悟ったのである。それ以後、彼は一切裸体画は書かない、と心に決めたという。。

参考文献

  • 島田紀夫「ボストンと山梨のミレー -2点の《種をまく人》を巡って-『ボストンと山梨のミレー』(2002、山梨県立美術館)
  • サルバドール・ダリ「ミレー《晩鐘》の悲劇的神話 パラノイア的解釈」(2003、人文書院)

代表作

  • 落穂拾い Les Glaneuses (1857年)(オルセー美術館)
  • 種まく人 Le semeur (1850年)(ボストン美術館、山梨県立美術館)
  • 晩鐘 L'Angélus (1857-1859年)(オルセー美術館)
  • 春 Le printemps (オルセー美術館)

ジャン=フランソワ・ミレーの作品所蔵美術館