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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、イタリア・ミラノ生まれの画家。カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られており、今日ではバロック絵画の先駆者として高く評価されている。
カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた。両親はミラノ近郊のカラヴァッジョ村の住人で、父親が1577年に流行したペストで亡くなると、家族は故郷に戻り、カラヴァッジョ自身も幼少から青年期をそこで過ごしたためこの通称となった。父フェルモ・メリージはカラヴァッジョ公爵家の執事で、カラヴァッジョ村にそこそこの土地資産を持っており、スフォルツァ家とも人脈を持っていた。なお、母親は1584年に亡くなっている。
母親が亡くなった年、カラヴァッジョはロンバルディア地方で活動していた画家、シモーネ・ペテルツァーノの工房に入ることとなった。ペテルツァーノの工房では20歳前後まで修行していたと考えられている。
1592年、カラヴァッジョはローマに移り、1595年頃にフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿にその才能を見いだされ、画家として一本立ちする。彼の描いた革新的な宗教画は教会において物議をかもしたが、裕福な人々は彼の作品の劇的な構成力を評価し、独創性を認めた。この時期のカラヴァッジョの代表作は『聖母の死』、『聖マタイの殉教』などである。この時期に既にカラヴァッジオは彼の特徴である画面の明暗の差が激しい作風を確立している。また人物モデルに当時のローマの市井の人々を起用し、目に見えるものを見たまま画布に細密に描くという徹底したリアリズム表現を行った。
ローマ時代のカラヴァッジョは数多くの逸話を残している。例えば『聖母の死』では、注文主の教会が「聖母マリアのお眠り」というテーマで描くよう依頼したにもかかわらず、カラヴァッジョは単に横たわっているだけの女の遺体を描き、注文主である教会から受け取りを拒否されている。
またカラヴァッジョは激情型の性格の持ち主で、アトリエを離れれば腰に剣を提げ、酒場でしばしば騒動を引き起こした。喧嘩は日常茶飯事で、逮捕されたことも1度や2度ではなかった。1606年には決闘の相手を殺してしまい、ローマを離れざるを得なくなった。
ローマを離れたカラヴァッジョは、当時スペインの属領であったナポリ王国の首都、ナポリへと工房を移した。ナポリでもカラヴァッジョには注文が殺到し、数ヶ月という短い期間に多くの作品を仕上げている。
その後、カラヴァッジョはマルタ騎士団の本拠地があるマルタ島へと移動。幾つかの油彩を制作するが、ここでも暴力沙汰を起こして投獄される。脱獄に成功したカラヴァッジョはシチリアへ逃れ、聖堂から複数の制作依頼を受けている。シチリア島で9ヶ月を過ごした後、カラヴァッジョは再びナポリへと向かった。
一方、ローマに居るカラヴァッジョの知人たちはカラヴァッジョへの恩赦を実現させる為に活動していたが、1610年になってようやくこれが実現し、ナポリのカラヴァッジョのもとに使者が送られた。これを知ったカラヴァッジョは自身も船に乗ってナポリから北上していった。しかしこの旅の途中でカラヴァッジョは病に倒れ、7月中旬から下旬の間にトスカーナ地方のポルト・エルコーレで息を引き取った。
同世代や続く世代の画家たちに、カラヴァッジョがもたらした革新が与えた影響を無視することはできないだろう。彼の忠実な写実主義、モデルの選択、明暗表現、彼独自の静物画の豊かな通路をしめした“闇の様式”、彼の色彩に対する眼などは、カラヴァッジョ作品の特徴である[誰?]。
カラヴァッジョの躍進的な様式を模倣した画家に、オラツィオ・ジェンティレスキや彼の娘であるアルテミジア・ジェンティレスキなどが挙げられている[要出典]。なお、このアルテミジアも1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。
“ユトレヒト・カラヴァジェスキ”と呼ばれた、ユトレヒト出身のカトリック教会芸術団体は、17世紀の最初の年にローマへ旅行をした際、カラヴァッジョの作品に深く影響を受けていた、とベローリは描写している[要出典]。彼らが北へ帰った後の流行は長く続かなかったが、後に1620年代、ヘンドリック・テル・ブルッヘンやファン・バブーレン(Drick Van Bahuren)の間で強烈に影響を与えていた[要出典]。
続く世代においてカラヴァッジョの強い影響が少なくなかったことは、イタリアに一時滞在した際に彼の作品を見たと思われるルーベンス、フェルメール、レンブラントそしてベラスケスへ与えた影響においてたどることができる[要出典]。
カラヴァッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとは!」と一部から批判の声があがった。しかし、画家として業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。