ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

(Gian Lorenzo Bernini)

作品

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『自画像』1630-35年、ボルゲーゼ美術館蔵ジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『アイネイアースとアンキーセース』ボルゲーゼ美術館蔵ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『アポロとダフネ』ボルゲーゼ美術館蔵ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『サン・ピエトロ大聖堂の天蓋、バチカン市国』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『聖テレジアの法悦』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『象が台座のオベリスク(ローマのミネルバ・オベリスク)』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『四大河の泉(Fontana dei Quattro Fiumi)』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『舟の噴水(バルカッチャの噴水)』ジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニジャン・ロレンツォ・ベルニーニ

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ジャン・ロレンツォ・ベルニーニについて

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini, 1598年12月7日 - 1680年11月28日)は、バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家。

「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。古代遺跡が残る古き都ローマは彼の手によって、壮大なスケール、絢爛豪華な装飾にあふれる美の都に変貌していった。人々は彼の作品を「芸術の奇跡」と絶賛した。

生立ち

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは、1598年12月7日に彫刻家ピエトロ・ベルニーニ(Pietro Bernini,1562年5月6日-1629年8月29日)の子としてナポリに生まれた。彼の父親は、フィレンツェ郊外に生まれたトスカーナ人であったが、ジャン・ロレンツォが誕生する少し前に、サン・マルティーノのカルトゥジオ会修道院で仕事をするため、ナポリ人の妻アンジェリカ・ガランテと共に、ナポリへと移り住んでいたのである。

1605年に一家はローマに戻り、ピエトロは枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの保護を得て、息子ジャン・ロレンツォの早熟な才能を彼に示す機会を得たのである。

ピエトロは、教皇パウルス5世のために仕事をし、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の洗礼堂に≪聖母被昇天≫を表した大理石の浮彫を制作した。さらにフラミニオ・ポンツィオの後援のもと、同聖堂内の教皇パウルス5世とクレメンス8世の墓を収容することになっていたパオリーナ礼拝堂において、他の画家・彫刻家たちと共に一連の装飾計画に参加し、1611年に≪クレメンス8世の戴冠≫を高肉彫りで制作した。後に、この大聖堂内にジャン・ロレンツォ・ベルニーニの墓所が設けられる。

これら父親の仕事は、若きジャン・ロレンツォ・ベルニーニにとって、複数の芸術家による制作の体制や、彫刻と絵画が一体になった図像学的・建築的計画の融合を学ぶ絶好の機会であり、後のジャン・ロレンツォ自身の仕事に反映されることになる。

17世紀初頭のローマは、並はずれた才能をもつ芸術家たちの熱気にあふれる芸術的革新に満ちた時期であった。一方では自然主義的なカラヴァッジョの絵画や、 カラッチ派の古典主義的なアカデミズムが、他方ではルーベンスの芸術がバロックへの道を切り開いていた。

初期作品

ジャン・ロレンツォは若い頃から彫刻に才能を発揮していた。

ヘレニズム時代の彫刻に大きな関心を示したベルニーニは、≪雌山羊アマルティア≫(1615)のような作品において古びた大理石の質感まで模し、真にヘレニズム時代の作品であると学者たちをあざむくことができるほどであった。

教皇ウルバヌス8世の元での制作

シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿のために制作された4体の彫刻群、つまり≪アイネイアースとアンキーセース≫(1618-19)、≪プロセルピーナの略奪≫(1621-22)、≪ダヴィデ≫(1623-24)、≪アポロとダフネ≫(1624-25)によって、ベルニーニは即座に名声を手にした。現在でも、4体共にローマのボルゲーゼ美術館に所蔵展示されている。

マデルノ(1556年-1629年)のもとで建築に携わり、1623年、25歳の時に願ってもないチャンスが訪れる。バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世から「勝利の教会」の意思を表すような総合芸術を壮大な都市計画によって実現するために理想的な芸術家であるとみなされたベルニーニは、建築と彫刻と都市計画とが融合した一種の芸術を創造することになった。

こうして最初にウルバヌス8世から依頼されたのは、ビビアナー教会のための≪聖女ビビアーナ像≫(1623)であった。 続いて、16世紀の教会危機の後のカトリック教会の復活と勝利を表すため、カトリック教会の設立者である使徒聖ペトロの殉教の地である サン・ピエトロ大聖堂が次なる芸術創造の場に選ばれた。それはミケランジェロやラファエロなど大巨匠による重要な作品の残る場でもあった。

教皇は、新しい祭壇がブロンズ製の巨大な天蓋(バルダッキーノ)に覆われることを望んでおり、ベルニーニの手により1624-33年にバルベリーニ家の紋章である蜂がちりばめられたらせん状の円柱をもつブロンズの巨大天蓋が、大理石の台の上に設置された。これは、クアラントーレ(イエスの死から復活まで、つまり金曜の午後から日曜日の朝まで、連続して祈りを捧げる儀式)などで用いられた装飾品に着想を 得たものだとされている。

1627年にはウルバヌス8世の記念碑的墓碑の建設が始められた。それは、ファルネーゼ出身の教皇パウルス3世の16世紀の墓碑と対照的に設置されたが、トレント公会議を開始したパウルス3世と、教会改革を終わらしたウルバヌス8世とを象徴的に示すためであった。

1630年、師カルロ・マデルノの死後、バルベリーニ宮殿の仕事の後続を依頼され、ボッロミーニと協力して完成した。 1642-43年、≪トリトーネの噴水≫を制作した。これは彼の一連の噴水の最初の作例である。

だが1641年に、順風満帆だったベルニーニに落とし穴と挫折が待っていた。設計を担当したサン・ピエトロ大聖堂の鐘塔から大きな亀裂が見つかった。この失敗はローマ中かけめぐるスキャンダルに発展。若くして美術界に君臨したベルニーニに対し、溜まっていた不満(嫉妬)が、一気に爆発する。“見かけばかりで実用をなさないベルニーニ”と批判された。

教皇インノケンティウス10世の時期の活動

ベルニーニの幸運は、ウルバヌス8世の死(1644年)をもって突然に去って行ったようである。 実際、経済的危機の時代に即位した次期教皇パンフィリ家出身のインノケンティウス10世は、極めて厳格な人物であった。

この時期から、数多くの芸術注文は、ベルニーニのライバルだった他の芸術家に委嘱されるようになり、例えばフランチェスコ・ボッロミーニがサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の改装を行い、またカルロ・ライナルディがパンフィリ宮殿を建設し、さらにはナヴォーナ広場のサン・タンジェロ・イン・アゴーネ教会の建設を始めた。

だがこの時期に、ベルニーニは17世紀の芸術作品の中で最も重要な傑作のひとつを制作した。ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会(勝利の聖母マリア教会)内、コルナロ礼拝堂の≪アヴィーラの聖テレジアの法悦≫である。

1644年には、ローマのナヴォーナ広場に≪四つの川の噴水≫を制作した。続いてサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に「修道女マリア・ラッジの記念碑」として≪真実≫(ボルゲーゼ美術館蔵)を、さらに≪インノケンティウス10世の胸像≫(ドリア・パンフィリ美術館蔵)、≪フランチェスコ1世・デステの胸像≫(モデナ、エステンセ美術館蔵)を制作した。

教皇アレクサンデル7世時代の制作活動

1655年にキージ家出身の教皇アレクサンデル7世が即位した。彼は30年前の芸術家に慕われたウルバヌス8世のように、人文主義的な教皇であった。

ベルニーニがこの教皇から最初に注文を受けた作品のひとつは、ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会内のキージ家礼拝堂のための、≪ダニエルとハバククと天使≫(1655-1661)と、身廊および翼廊の装飾であった。

ローマでは、1656年~1667年に「サン・ピエトロ広場」を建設したが、設計を依頼されたのは50代の半ばであった。だが取り掛かりはじめ難題にぶつかる。当時、サン・ピエトロ大聖堂の前には、いびつな形をした空き地があるだけだった。「この空間を神聖な場所にするには、どうすればいいのか ?」ベルニーニは聖地に相応しい形を求め、試行錯誤を繰り返した。そしてひとつのアイデアに辿りつき、1667年に、サン・ピエトロ広場は完成した。フランス王ルイ14世に招かれ、ルーヴル宮殿の改築計画にも関わった。

ベルニーニの彫刻のクオリティは極めて高く、多作で、生きていた時代を反映している彫刻家は歴史上殆どいない。彼の最初の作品は17歳、もしくはそれ以前に刻んだ幼神ゼウスの彫像で、最後の作品は81歳の時のキリスト像である。その間60年余り、彼は彫刻史上の大変革に一役かったばかりでなく、最も人気のある建築家としても作品を残した。

彫刻作品

  • 「プロセルピナの略奪」(1622、ローマ、国立ボルゲーゼ美術館)
圧倒的な迫力と躍動感に満ちた2つの肉体。冥界の王プルートが一目ぼれした女神の娘プロセルピナを連れ去ろうとする、ギリシャ神話の一場面である。逃げるプロセルピナを手に入れようと、力づくでつかみかかるプルート、その指はプロセルピナの柔らかな肉体に深く食い込んでいる。とても石でできているとは思えない肉体のリアリティ。それは彫刻史を塗り替える革新的な作品であった。
  • 「ダビデ像」(ローマ、国立ボルゲーゼ美術館)
  • 「アポロンとダフネ」(1625、ローマ、国立ボルゲーゼ美術館)
美しい娘ダフネに恋して我が物にしようと迫る太陽の神アポロン。しかし、その手がダフネに触れた瞬間、彼女は月桂樹の木へと姿を変える。5本の指は茂る枝葉へと変貌し、足先からは根が生え、体は見る見る木の皮に覆われていく。ふたりの絶妙なバランスと躍動感、劇的な一瞬を見事に切り取っている。神話の世界があたかも目の前で起こっているような緊迫感。発表当時、ローマ中の人々がこの作品を見るために押し寄せ、口々に「これは奇跡だ」と語ったと云われている。
  • 「聖テレジアの法悦」(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会堂コルナロ礼拝堂)
16世紀スペインに実在した聖女テレジアが神と出会い、その喜びに満たされる奇跡の場面。頭上からは彫刻で表現された神の光が降り注ぎ、天使とテレジアを包み込んでいる。ベルニーニにはこの礼拝堂の全てを設計し、様々な仕掛けを施すことで、新たな奇跡を起こした。
  • 「四大河の泉」(1648-51、ローマ、ナヴォーナ広場)
4つの大陸を流れる大河、ガンジス川(アジア)、ナイル川(アフリカ)、ラプラタ川(南アメリカ)、ドナウ川(ヨーロッパ)を擬人化した作品で、4つの大河を表現することで教会は、4つの大陸を支配することを表現している。また、19世紀中頃まで行われていた夏のお祭り「ラーゴ」で、ある演出が行われていた。それは「四大河の泉」の排水溝に栓をして数時間掛けて水をあふれさせ、ベルニーニは旧約聖書に登場する「ノアの箱舟」を題材にした人口の湖を作った。ベルニーニは単なる彫刻家だけではなく、型破りなアイデアでローマの町全体を劇場に変えた。
  • 「舟の噴水(バルカッチャの噴水)」(スペイン広場 (ローマ))
  • 「トリトーネの噴水」(バルベリーニ広場(ローマ))
  • 「ミネルバ・オベリスク」(サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会前)

建築作品

  • 「サン・ピエトロ大聖堂祭壇天蓋」(バルダッキーノ)(1624-33、バチカン)
最初の仕事でもあり、大聖堂の象徴となる、モニュメントの製作であった。建物の中央、地下深くに眠る守護聖人「ペトロ」その墓を守る大きな天蓋を依頼された。ベルニーニにとって初めての建築作品。持てる技の全てを注ぎ込み、9年の歳月を掛けて完成させた。高さ 29メートルに及ぶ巨大な天蓋。鋳造のため、ローマ中からブロンズ(銅)が集められた。ダイナミックに上昇のリズムを刻むねじれた柱、細部に至るまで緻密な装飾で埋め尽くされている。ベルニーニは観る者を圧倒する絢爛豪華な天蓋で教会の権威を見事に具現化した。
  • 「バルベリーニ宮」(1628-38、ローマ)
  • 「モンテチトーリオ宮殿」(1650-97、ローマ)
  • 「サン・ピエトロ広場」(1656-67)
  • 「サンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂」(1658-61、ローマ)
  • 「キジ・オデスカルキ宮」(1664-、ローマ)
  • 「ルーヴル宮殿改築案」(1664-5、パリ)実施されず

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの作品所蔵美術館