※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。
全国の美術館の情報や絵画・彫刻・アートなど芸術作品と画家・作家の紹介
ベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli, 1421年頃 - 1497年)は、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家。ゴッツォリの最も知られている作品は、メディチ・リカルディ宮にある連作の壁画である。驚くほどディテールに凝った、華やいだ、活気溢れる行進が描かれていて、国際ゴシックがゴッツォリの絵に影響を及ぼしていることを示している。
ゴッツォリは本名をベノッツォ・ディ・レーゼ(Benozzo di Lese)と言い、1421年頃、サンティラーリオ・ア・コロンバーノ村で生まれた。1427年、家族ともどもフィレンツェに引っ越した。ジョルジョ・ヴァザーリによると、最初はフラ・アンジェリコの弟子兼助手だったということである。
フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるいくつかの作品は、アンジェリコのデザインをゴッツォリが仕上げたものである。1444年から1447年にかけて、ロレンツォ&ヴィットリオ・ギベルティ親子と共同で、サン・ジョヴァンニ礼拝堂の楽園の扉を制作した。
1447年5月23日、ゴッツォリはアンジェリコと共に、ローマ教皇エウゲニウス4世の依頼で、バチカン宮殿礼拝堂の装飾をした。さらに二人は、次のローマ教皇、ニコラウス5世のためにも、Niccoline礼拝堂を手掛け、それは1448年6月までかかった。
1449年から、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に『聖母子』の旗を作りはじめたが、おそらくデザインはアンジェリコだったと思われる。さらにローマにとどまり、サンタ・マリア・イン・アラチェーリ教会に『聖アントニウスと2人の天使』というフレスコ画を制作した。アンジェリコとの最後の共同制作はウンブリアのオルヴィエート大聖堂の丸天井だった。
1449年、ゴッツォリはアンジェリコの元を離れ、ウンブリアに移った。1450年から、ナルニで『受胎告知』の制作に取りかかるが、その絵には、OPU[S] BENOT[I] DE FLORENT[IA]という署名がある。モンテファルコ近郊のサン・フォルトゥナート修道院では、『聖者たち、天使たちと聖母子』他3作を描いた。その3作の1つは、聖母の帯を受け取る聖トマスが描かれた祭壇画で、現在Pontifical Museum of Christian Antiquitiesにあり、ゴッツォリの初期の作風とアンジェリコの作風との類似を示している。
ゴッツォリは次に、モンテファルコのサン・フランチェスコ修道院の聖歌隊席を、3通りの聖者の一生の絵とさまざまなアクセサリーでいっぱいに充たした。絵の中には、ダンテ、ペトラルカ、ジョットの顔も見えた。この仕事は1452年に仕上げた。アンジェリコの作風はまだ残っていたものの、ジョットの影響もそこかしこに見られた。さらに、同教会の聖ヒエロニムス礼拝堂に、『聖者と聖母』、『キリスト磔刑』などのフレスコ画を描いた。
途中ヴィテルボに行きはしたが、おそらく1456年までゴッツォリはモンテファルコに腰を落ち着けていたものと思われる。助手としてピエル・アントニオ・メッツァストリスを雇っていた。それからゴッツォリはペルージャに行き、教会に『聖母子』を描いた。この絵は現在、地元のアカデミーにある。
それからすぐに故郷のフィレンツェに戻るが、その当時のフレンツェはクアトロチェント美術の中心地になっていた。1459年から1461年にかけて、ゴッツォリはおそらく彼の代表作であろう作品に着手する。メディチ・リカルディ宮のマギ礼拝堂に描いたフレスコ画『東方三博士のベツレヘムへの旅』ならびに説教壇に描いた『楽園の天使たち』である。『東方三博士の旅』の中には、メディチ家の人々の姿が見え、さらに行列の絵の中には自画像を描き加え、その帽子の縁に自分の名前を記した。
現在ロンドンのナショナル・ギャラリーにある『聖者たちと聖母子』は1461年の作品で、ゴッツォリはまだフィレンツェにいた。同ギャラリーにある小さな絵『ヘレネの略奪』はゴッツォリの作品か信憑性が問われている。
1464年、ゴッツォリはフィレンツェを後にし、コッレジャータ・ディ・サン・ジミニャーノ教会の仕事のため、トスカーナに移った。その地でゴッツォリはいくつかの大規模な作品を手掛けた。
まず、サンタゴスティーノ教会に『黒死病から町を守る聖セバスティアヌス』(1464年)を、同教会のすべての聖歌隊席に、さまざまなアクセサリーとともに、3通りの聖アウグスティヌスの伝説(タガステの学校に入り、埋葬されるまでの)の17の場面を、ピエーヴェ・ディ・サン・ジミニャーノに『セバスティアヌスの受難』他を、さらに、トスカーナとその近辺で、ゴッツォリはたくさんの絵を描いた。ゴッツォリの作風はフィリッポ・リッピのある部分に、ゴッツォリ独自の要素を混ぜたようになっていた。また、ジュスト・ダンドレアの協力を受けた。
トスカーナには1467年まで居て、1469年から、ゴッツォリはピサのカンポサントで仕事を始めた。旧約聖書から、『ワインを発明したノア』から『ソロモン王を訪問するシバの女王』まで、全部で24の場面から成る連作の大作壁画である。
1年に3作、1作あたり10ダカット(中世ヨーロッパの貨幣単位で、1911年の換算では当時の100イタリア・リラに相当)の契約だった。しかし、この契約は遵守されたわけではない。現実には2年間に3作のペースでしか完成しなかった。おそらく描く人物と装身具の膨大さで、制作の遅れを許してもらえたのだろう。
1470年1月までに、『ノアとその家族』、『ハムの呪い』、『バベルの塔』(この絵の中にはコジモ・デ・メディチ、若きロレンツォ・デ・メディチ、アンジェロ・ポリツィアーノなどの顔も見える)、『ソドム滅亡』、『アブラハムの勝利』、『レネッカとラケルの結婚』、『モーゼの一生』、などが完成した。カンポサントの門と向かい合うアンマンナーティ礼拝堂にも、『東方三博士の礼拝』を描いた。その中にはゴッツォリの姿も描かれている。
1497年、ゴッツォリはピストイアで亡くなった。おそらく死因は疫病と思われる。
ゴッツォリは1478年、ピサ政府から、尊敬の証として、カンポサントの墓を与えられていた。ピサには自分の家も持っていた。地元フィレンツェにも複数の家と土地を所有していた。ゴッツォリの生涯を通しての真面目さは、その師フラ・アンジェリコと並ぶと言われている。
ゴッツォリの絵は、崇高さ・力強さの点で、同時代の巨匠たちの敵ではないかも知れない。しかし、それでも魅力的である。贅沢に生き生きと画面を賑わす人物たち・オブジェ。鳥や動物(とくに犬)などがひしめきあう背景は、どんな先達の作品より、バラエティ豊かで、魅惑的である。
ゴッツォリの作品にぎっしり描きこまれた人物たちは、悲劇的な場面、騒乱する場面よりも、楽しそうにのびのびしている時の方が、より真に迫って見える。その色彩も明るくはなやいでいる。概して、ゴッツォリの才は、独創性というより、融通がきくこと、指示性にある。
一方、デッサンや建物の遠近法に関しては、とくに端に向かうほど、欠点を露呈している。また、フレスコを描くのにもテンペラの技法で描いていた。とはいえ、その作品の力強さ、おびただしい作品の数は、ゴッツォリが疲れを知らぬ人間工場のごとき画家であったことの、何よりの証拠である。