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フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi, 1406年 - 1469年10月8日)はイタリア、ルネサンス中期の画家。ボッティチェリの師でもあった。
フラ・アンジェリコとともに、15世紀前半のフィレンツェ派を代表する画家である。フラ・アンジェリコが敬虔な修道士であったのとは対照的に、リッピは何人もの女性と浮名を流す恋多き男で、修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られる。
フィリッポ・リッピは1406年、フィレンツェの下町の肉屋に生まれた。生年については確かな記録がない。幼くして孤児になったリッピはカルミネ派修道院で育てられ、修道士となった。絵画の師はロレンツォ・モナコとされているが、フィレンツェの先輩画家で夭折したマサッチオの作品からも影響を受けている(マサッチオはリッピが所属していたカルミネ派の教会に代表作「貢の銭」などの壁画を描いていた)。
リッピの初期の作品にはゴシック風の堅さがあるが、やがて、マサッチオ風の現実感ある空間・人体表現が現われる。聖母像などに見る甘美な女性像はリッピの特色である。
1452年、リッピはフィレンツェの北西20キロにあるプラートの大聖堂の壁画制作を委嘱され、1464年頃までこの仕事に携わっている。洗礼者ヨハネ伝と聖ステファノ伝を主題としたこの壁画は現存し、リッピの代表作と見なされている。この壁画制作期間中の1456年にはプラートのサンタ・マルゲリータ修道院の礼拝堂付き司祭に任命されている。
同年、リッピはサンタ・マルゲリータ修道院の当時23歳の修道女ルクレツィア・ブーティを祭礼の混雑にまぎれて誘い出し、自宅に連れ去った。当時リッピは50歳前後の壮年である。1457年頃には2人の間に息子・フィリッピーノ・リッピが生まれている。このことは当然、問題となり、リッピは告発されて修道院に出入り禁止となった。
しかし、芸術家に援助を惜しまなかったメディチ家の当主コジモ・デ・メディチのとりなしにより、彼らは教皇から正式に還俗を許され、正式の夫婦となった。リッピの描くマリアやサロメのモデルはルクレツィアだとされている。
この絵はそれまでのマリアの絵と大きく異なる画期的なものだと評されている。明治学院大学講師の塚本博は「人間の表現が、従来のものとは異なり現実の人間が現れたような作品である。ルネサンスはどのように人間を生き生きと描くかという芸術の運動であったが、それの始まりと言えるような作品である。リッピの絵は貴婦人のように鼻筋が通り、眼差しも少しうつむくようにとても人間性が現れている。宗教的な部分と現実的な人物を描くことが合わさって表現されている」と語る。
また、「聖母子と二天使」は真珠のような宝石類を付けたり、透き通るようなベールをした飾りの突いたモードは、この時代の最新流行のファッションを着たマリアを描いた。
リッピの弟子にはサンドロ・ボッティチェッリがいる。
1467年、壁画制作のためイタリア中部のスポレートに妻子を伴って移り住み、2年後、壁画の完成を見ずに同地で没した。