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菊池 容斎(きくち ようさい、天明8年11月1日(1788年11月28日) - 明治11年(1878年)6月16日)は、幕末から明治時代初期にかけての日本画家。旧姓は河原。本名は量平または武保。
幕府西丸の御徒・河原専蔵武吉の次男として、江戸は下谷長者町で生まれた。父は菊池家から養子に来た人であったが、系図によると南朝遺臣の菊池肥後守武時の後裔であるという。
15歳の時に早世した兄に代わって河原家を嗣いでいたが、28歳の時に父の生家が断絶し、量平はこの名家が廃されるのを惜しみ、妹に婿養子を迎えて河原家を嗣がせたのち38歳で致仕し、菊池武長の後を継いで菊池家を再興した。菊池武保と名乗るのはそれからである。「容斎」という号は、厳格さのあまり他人を容赦しない自分の性質を戒めるためにつけたという。
幼いときから絵を描くのが好きだったが、画を学ぶことを父から許されなかった。16歳の時に描いた両親の肖像画を見て初めてその伎倆を認められ、許しが出たという。文化2年から高田円乗に師事し、狩野派や南蘋風の絵を学ぶ。円乗の死後は師につかず、その教えを守り流派にこだわらずにその長所をとることに努めた。
生活は楽ではなかったが、画を認めてくれた旗本・久貝因幡守の財政援助を得て「阿房宮兵燹の図」「呂后斬戚夫人図」などの大作を描いた。学問上の知己として羽倉簡堂がいる。
文政8年(1825年)から『前賢故実』の著作に取りかかり、天保7年(1836年)に完成させた。これは10巻より成り、神武天皇の時代から、後亀山朝にいたる日本史を代表する500人を選び、画のうえにそれぞれ小伝を加えるかまたは詩歌を掲げた。
この著は容斎の歴史趣味と尊皇愛国の精神を遺憾なく伝えた代表作である。明治元年(1868年)9月に刊行。明治天皇が東京に遷るときにあたって、推薦する人があって右大臣・三条実美と左中将・東久世通禧によって天皇の目にとまり、容斎に対して「日本画師」の号を賜られた。
一説によると刊行前に孝明天皇に献上され、天皇を動かして和気清麻呂に神号を追贈させるきっかけとなったという。明治7年(1874年)「土佐日記絵巻」2巻を描く。明治10年(1877年)の内国勧業博覧会に出品し、最高の竜紋褒賞を授与された。神田お玉が池の自宅において逝去。
『前賢故実』は明治36年(1903年)、孫菊池武九によって、有職故実の考証1巻を加えて『考証前賢故実』全11巻として東陽堂から刊行された。『前賢故実』は国家意識が高まり歴史画が盛んに描かれ出すと、そのバイブルとしての役割を果たした。日本画家のみならず、洋画家や生人形師、写真家、果ては講釈師まで参考にしており、その影響力の大きさが伺える。
容斎の門人として、松本楓湖と渡辺省亭などがいる。また、容斎に私淑していた梶田半古は、弟子に『前賢故実』を書写させ、その中から小林古径や前田青邨といった次代を担う歴史画家が育っていった。なお、心理学者多湖輝は容斎の子孫にあたる。