杉浦俊香

(すぎうら しゅんこう)

杉浦 俊香(すぎうら しゅんこう、天保15年5月7日(1844年6月22日) - 昭和6年(1931年6月8日)は、戦前の日本の美術家、日本画家、哲学者。現在の静岡県静岡市出身。独自の日本画を創出し、近代日本画壇はもとより、海外にも日本画を紹介した。

自ら日本画壇からは遠ざかっていたが、前後5回、欧米に渡り日本画の紹介行脚を行い、1913年(大正2年)、フランス政府よりオフシェー叙勲、外国人に贈られる最高章を授章、同時にルーヴル美術館より遺作「湖畔晩帰」の展示を約束された。

経歴

天保15年(1844年)、駿河国府中の徳川家臣・今井家の第9代今井松宇の三男・今井高融として生まれる。明治35年6月(1902年)、静岡県安倍郡静岡東草深町3丁目の杉浦清の養父として分家し、東京市神田区三崎町3丁目にて杉浦家を継ぐ。兵庫県の聖地に篭り、哲学と日本画の研鑽に壮年期を過し、独自の日本画を創出し雅号を俊香と称す。

杉浦俊香は、生涯、酒、煙草は一切嗜まず、揮毫に際しては身を清め、全霊を傾注し完成に努力した。生涯を通じての作品は、一般の画家に較べ遥かに少ない。また、画伯の溌墨画及び雪影は独自の新しい画風である。

1898年(明治31年)、日本美術院の創立に際し、岡倉天心、橋本雅邦等と意見を異にし、独自の道を進み真の日本画の真髄を世界に紹介すべく、たびたび諸外国を歴訪した。1902年(明治35年)、「精神有無論」を発刊。1903年(明治36年)、大阪府での第五回内国勧業博覧会に出展した。

1906年(明治39年)、凱旋記念五二共進会に於いて出展し、松方正義より深謝状を授かる。

1908年(明治41年)〜1909年(明治42年)、作品を携え、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.からフランスと廻り日本画の紹介に努め、フランスに於いてはパリのコンネリー博物館に陳列し、フランス政府よりオフイシェー勲章を受け、同時に、ルーヴル美術館より作品の展示を約束された。

1913年(大正2年)、賞勲局より大日本帝國外國記章汎用免許證を受ける。1916年(大正5年)、「絵画と国家の盛衰」を発刊する。

1919年(大正8年)、時の有識者、伊東巳代治、石川成秀、犬養毅、早川千吉郎、花井卓蔵、細川潤次郎、徳富猪一郎、床次竹二郎、大木遠吉、金子堅太郎、高橋是清、高木兼寛、棚橋一郎、九鬼隆一、柳田國男、柳沢保恵、松室致、益田孝、福原鐐二郎、藤沢南岳、古賀廉造、佐分利一嗣、清浦奎吾、島田三郎、柴田家門、平山成信、鈴木宗言らにより正画復興会が起こされた。これは、杉浦俊香を支援し、日本美術思想の復興を図り、正画の藍奥を明らかにしようとするものであった。

1921年(大正10年)~1922年(大正11年)、作品を携え米国よりスイス・チューリッヒ、ドイツ・ドレスデン、イギリス・ロンドン、フランス・パリを歴訪し日本画を世界に紹介した。1924年(大正13年)、朝鮮及び中華民国へ歴訪する。

1922年(大正11年)、「画界の維新」を発刊する。 1926年(大正15年)、アメリカ独立150年を記念し、フィラデルフィアにて万国博覧会が開催された際に作品を展示し、芸術、絵画の部で金メダルを授与された。

1928年(昭和3年)、昭和天皇即位に当たり、晴雪 浩観 水墨山水、夏渓 静修 金碧山水の二幅を献上し、宮内大臣一木喜徳郎より嘉納状を受ける。

1931年(昭和6年)6月8日、病を得、88歳で死去。直ちに、フランス・ルーヴル美術館へ約束の一幅を送る。1932年(昭和7年)、同館より礼状があり、遺作は現代外国の絵画を収容するジュ・ド・ポーム博物館へ納められたとされた。

「精神有無論」は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリー書誌情報において、著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて公開しており、本文画像を全て見ることが出来る。(著作者兼発行者:杉浦俊香、発売元:東京・岡崎屋書店、明治35年5月15日発行、著作権:文化庁長官裁定、裁定2006年1月23日)。

また、1916年(大正5年)、書かれた「絵画と国家の盛衰」と、1922年(大正11年)、書かれた「画界の維新」も、国立国会図書館に所蔵されている。

杉浦俊香の作品所蔵美術館