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小尻 源峰(こじり げんぽう、1927年5月12日 - )は日本画家である。師は森谷南人子。広島県尾道市出身で現在は岐阜県在住。
白峰会会長。等迦会特別会員。弟子は星月ノ友(旧雅号・小尻紗弘)
1927年(昭和2年)に広島県尾道市で生まれる。幼い頃にリウマチ熱にかかり、心臓弁膜症という重い障害が残る。6歳まで尾道市で過ごすが、父親の転勤のため大阪府島屋町へ転居する。室戸台風の被害に遭い、家が廃屋となった為、一時吹田町に転居する。その後、再び島屋町に戻り、島屋小学校へ転校後、卒業。
西野田工業高校に進学するが、1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が勃発し、在学中に志願兵として、広島の呉海軍に入隊。横須賀の大楠海軍機関学校に入校し、魚雷艇航海技術などを学び卒業後、呉に戻る。
1945年(昭和20年)8月6日に広島市への原子爆弾投下により発生したきのこ雲を目撃。救護命令を受け、広島に救護活動に行くために総合身体検査を受けたところ、血圧が正常で無く、救護活動に参加できなかった。同年の8月15日に終戦を迎え、兵役解除となり、姉が住んでいた尾道市へ行く。
復員局として鹿島(練習巡洋艦)に搭乗、日本在住兵や軍族を乗せてオーストラリアからの帰国業務に携わった。業務終了後、就職の為広島県三原市へ行く。
広島県三原市の三菱重工に入社。自動工作機(オートメーション)等の開発設計を行った。同時期、絵を習いたい旨を俳人の叔父に相談、小林和作を紹介され筆談にて洋画を習う。また叔父から尾道に住む日本画家の名前を聞き、弟子入り志願するが断られる。諦めきれず何度も足を運び、最終的に一週間の座り込みを行う。結果、1950年(昭和25年)に国画創作協会会友森谷南人子に日本画を師事。本格的な修業を積んだ。
1959年(昭和34年)には、兵庫県尼崎市の株式会社ナニワ工機(アルナ車両株式会社)に転勤、阪急系列会社の電車の設計、東武鉄道からの依頼でデラックスロマンスカー(けごん)の設計や総合デザインを担当した。その他、ボディペインティング塗料で南米チリの観光車両に富士、舞妓、宮島の風景を描く。また初期の新幹線の設計やデザインを担当した。
その後、会社が拡大され、岐阜県のアルナ工機株式会社(アルナ車両株式会社)に転勤し、近代様式の建築やサッシ、コンテナーハウジング、可動式ドア、ロボットの構造や総合デザイン研究のためヨーロッパ数ヶ国をまわり、調査や研究を行った。定年間近に心筋梗塞で入院、その後、定年退職を迎える。
数年後の1985年(昭和60年)に「流派にこだわらず個性豊かな素晴らしい芸術作品を発表し、多くの若手作家が中央で活躍する先輩のアーティストと共に、お互いに研鑽しながらバラエティに富んだ展覧会」を目的に全国公募「美術団体白峰会」を結成。1986年(昭和61年)に第1回白峰展開催(2010年7月に第25回を迎える)。
1990年(平成2年)に、当時等迦会(東京都美術館)の会長・鈴木一英に出会い、同年の第23回等迦展に推薦出品する。また1995年(平成7年)には、「阪神大震災被災者へ頑張れのメッセージを込めて」チャリティー展を開催し、利益はすべて新聞社を通して被災地へ送られた。2003年には、弟子の星月ノ友(旧雅号・小尻紗弘)と共同で師弟展を開く。
現在は美術団体白峰会会長、等迦会の特別会員。
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