大橋翠石

(おおはし すいせき)

作品

大橋翠石1大橋翠石2

※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。

大橋翠石について

大橋 翠石(おおはし すいせき、1865年(慶応元年) - 1945年(昭和20年)8月31日)は岐阜県大垣市出身の明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。世に「虎の翠石」と言われて名高く、その描くところの虎画は本物の虎がまるで生きているかのような躍動感がある。

翠石の前半生を記した『千里一走』によれば、若き日の彼が完成した虎画を見せられた人は驚嘆して「円山応挙ハ虎皮ヲ写シ、岸駒は虎頭ヲ写ス、翠石ノ斯ノ画ニ於ケル、遥ニ、二者ニ超越シテ、全身ノ活現毫モ間然スル所ナシ、ソノ手法ノ非凡ナル、古人亦遠ク逮ハス」と激賞したという。

緻密な毛書きが施された虎画は1900年(明治33年)にパリ万国博覧会で絶賛されて優勝金牌を受賞し、続いてセントルイス万国博覧会、日英博覧会などの国際博覧会でも連続して優勝金牌を受賞した。

また金子堅太郎(子爵)が翠石の後見人となり、彼の作品を先の国際博覧会へ出展や宮中への献納に尽力した。その結果、盛名を得て明治天皇や皇后、朝鮮の李王家などにも絵を献上している。

1912年(大正元年)に郷里の岐阜県大垣市から神戸市須磨に移住し、翠石の画業の中心は神戸市へと移った。この神戸で従来の日本画とは一線を画した、濃密な背景表現に特色を持つ、独自の「須磨様式」を完成させた。本名は大橋卯三郎であるが、通称として宇一郎を用いた。

概要

生家は岐阜県安八郡大垣北新58番戸(大垣市新町2丁目)祖父は長左衛門、父は大橋亀三郎といい紺屋を業としていた。母・さとは多芸郡船附村(養老町)吉安の出で、この吉安家は後に東京千住に移籍した。

これに2男1女があり長男・鎌三郎は紺屋を継いだが、翠石が画家として有名になってからは自身も画家となって「万峰」(まんぽう)と号して虎画を描いた。次男が卯三郎(翠石)で、宇一郎を自称した。妹ゑ津(えつ)は1898年(明治31年)に名古屋市桑名町杉山竹次郎に嫁した。

翠石は幼少の頃から画を描く事を好み、大垣の戸田葆堂、その師である京都の天野方壷らに就いて画の手ほどきを受けた。方壷のもとでしばらく学んだ後、一時大垣に帰郷したが。母に諭されて、東京に出て、渡辺小崋に入門した。

その後、死と母の急死に伴って大垣に帰郷し、濃尾大震災後に虎の見せ物小屋で虎を実見したことを契機として虎画の制作を精力的に行うようになった。

翠石の虎画では毛描きの緻密さが特徴であり、翠石自身も「この毛描き以上の工夫がなければ、翠石の虎画を模しても翠石以上の者はでないであろう」と家人に語ったという。

その後1912年(大正元年)に、神戸市現在の須磨区に移住した。この移住は、当時結核治療の先進地域であった須磨で自身が患った結核の治療を受けるためのものであったと考えられる。

神戸移住後、武藤山治や松方幸次郎ら阪神間の政財界の人々による後援会を結成している。虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまで言われたという。

翠石の画業の中では、神戸・須磨での活動期間が最も長く、この地で制作された作品には背景に遠近感や立体感のある山林や雲などを描く特色あるものが多い(須磨様式)。

また、虎以外にも獅子、鶴、金魚、狸、鹿、猫、兎などの動物画も多い。動物画以外にも観音像、山水、蛍などの作品もあり、その画域は広い。

1945年(昭和20年)3月17日の神戸空襲後の4月に大垣に疎開したが、安八郡大垣北新58番戸(大垣市新町2丁目)は街中にあるため郊外の家を借りて臥した。8月15日に終戦を迎えた後、新町の実家に戻り、8月31日、老衰のため午前4時に亡くなった。享年81。

虎の画風の変遷

青年期から初期
南画風の筆法によって、虎の縞で形を作り描いている。毛書きは基本的に白黒で描かれているために全体には薄く白っぽく見える。
中間期
墨で縞を描くのは変わらないが、地肌に黄色と金で毛描きをし腹の部分は胡粉で白い毛書きをしている。全体には黄色っぽく見える。
晩年期
虎の体躯に赤い彩色を施してから金泥や胡粉で毛描きが加えられており、全体に赤っぽく見える。この当時に描かれたものは「樹間之虎」「月下之虎」「山嶽之虎」など濃密な背景があり、樹木や岩山、笹などの描写は重厚で、洋画に影響を受けたと考えられるものも多い。
最晩年
地肌に赤、金で毛描きがなされ、その量も控えめになる。背景は晩年期より簡素化する。

落款変遷

  • 点石翠石 - 「石」字の第四画上部に点が付されている1910年(明治43年)夏まで
  • 翠石 - 二文字とも同じ大きさ 1期 1910年(明治43年) - 1922年(大正11年)
  • 翠石 - 石の文字が太い 2期 1922年(大正11年) - 1940年(昭和15年)
  • 糸落款翠石 - 翠石が細く書いてある 3期 1940年(昭和15年) - 1945年(昭和20年)
  • 翠石生 - 大きく2期に分かれ1期は1890年(明治23年)頃から1903年(明治36年)頃までで、この時期は石に点がある。2期は1912年(大正元年)より1916年(大正5年)頃までと推測される。
  • 即現 - 神戸時代の翠石の別号。観音等、崇敬の対象となる画題にしばしば用いられる。
  • 鉄拐山民 - 須磨への移住以降に用いられた。
  • 石寿 - 1942年(昭和17年)に、喜寿の記念として翠石自身が「石寿」と号したと言う。

※作品画像で落款確認ができます。

画歴

  • 1895年(明治28年)
    • 4月 - 31歳の時 第3回全国博覧会に初出品
    • 11月 - 京都青年絵画共進会に出品(2等賞)
  • 1896年(明治29年)5月 - 大阪私立絵画共進会には「月下の虎図」を出品して3等銅賞を獲得
  • 1897年(明治30年)5月 - 京都第1回全国絵画共進会に出品 4等、東京美術協会展に出品 2等
  • 1898年(明治31年) - 日本美術画会出品、東京美術協会展出品
  • 1899年(明治32年) - 大阪南画展覧会 2等、愛知全国絵画共進会に出品
  • 1900年(明治33年) - パリ万国博覧会で優勝金牌を受賞
  • 1901年(明治34年) - 宮内庁御用品となる
  • 1903年(明治36年) - 農商務省主催第5回内国勧業博覧会 2等
  • 1904年(明治37年) - アメリカセントルイス万国博覧会 優勝金牌を受賞
  • 1907年(明治40年) - 東京府勧業博覧会に獅子図を出品する
  • 1910年(明治43年) - 日英博覧会 金牌
  • 1913年(大正2年) - 宮中に虎図を納入し350円下賜
  • 1918年(大正7年) - 大垣新町の菅原ユ獅フ見送りに最初の虎画を描く(軸とは大垣祭は、岐阜県大垣市にある大垣八幡神社で行われる祭りで使われる山車)
  • 1924年(大正13年) - 大垣新町の菅原ヤマの見送りに極彩色の虎画を描く
  • 1925年(大正14年) - 名古屋美術倶楽部で大橋翠石新作画展を開催
  • 1926年(大正15年) - 名古屋松坂屋で大橋翠石絵画展覧会を開催
  • 1927年(昭和2年) - 東京上野日本美術協会で翠石百幅展が開催される。発起人は東郷平八郎、金子堅太郎、団琢磨ほか

画業の評価

「大日本書画評価一覧」によると1920年(大正9年)では「金弐百円 大橋翠石」という記述がある。当時中央画壇で活躍していた竹内栖鳳が1500円、横山大観、下村観山、川合玉堂、橋本関雪、土田麦僊らが300円、小室翠雲は250円、鏑木清方が200円、村上華岳が800円という評価を受けている。

1929年(昭和4年)では評価額は上村松園、荒木十畝、小室翠雲と同額の500円に達し村上華岳の300円、土田麦僊の250円、川合玉堂、鏑木清方の80円を凌いだ。この時代になると翠石を越えるのは竹内栖鳳1500円、横山大観1000円に限られる。

1930年(昭和5年)、日本絵画協会より発行された「日本古画評価見立便覧」では、翠石の名は枠外へ「特別動物大家」として別記され「神戸市兵庫西須磨 金三千円大橋翠石」とされる。3000円は東の大観、西の栖鳳とならぶ破格の画価であり、いかに翠石の画が世の人々に珍重されたかが知られる。

大橋翠石の作品所蔵美術館