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小山田 二郎(おやまだ じろう、1914年(大正3年) - 1991年(平成3年)7月26日)は、日本の画家。世相を皮肉的に風刺する油彩画や水彩画を多く描き、特に油彩ではペッティングナイフでキャンバスを傷つけるほど大胆な手法で描くことで知られる。曽祖父に黒羽藩士小山田廣徳(弁助)、遠縁に日本画家小堀鞆音がいる。
1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中国・安東県で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが、2歳の時スタージ・ウェバー症候群(en:Sturge-Weber syndrome)を発症。手術を受けるが完治する事は無く次第に下唇が腫れあがり顔中に痣が浮かぶようになった。
1927年(昭和2年)、13歳で母と共に母の実家である栃木県尾大田原市に転校したが、時と共に変形する顔にコンプレックスを抱き内に篭るようになった。
その後小堀鞆音のもとで絵を学び、画家への道を志すが父の猛烈な反対を受ける。1934年(昭和9年)、20歳の時に帝国美術専門学校(現・武蔵野美術大学)に入学するも父の堅実な道をという理由で図案科での入学であった。
諦めのつかなかった二郎は翌年に父親に黙って西洋画科へ転入し、すぐに父の知るところとなり仕送りを停止された結果中退を余儀なくされた。
太平洋戦争が勃発すると画材を集めることもままならず、絵描きとしても戦争を賛美することばかりが求められる風潮に絶望して一時筆を置くが、大日本印刷が画家を集めている事を知り1944年(昭和19年)に入社した。
終戦後は日本の変わりように矛盾を感じその思いをぶつけるかのような作品を描いている。1947年(昭和22年)、自由美術家協会に入会。1952年(昭和27年)、38歳の時に瀧口修造の推薦を受けてタケミヤ画廊で初めての個展を開催し、その後も毎年個展を行うようになった。
同年共に画家活動をしていたチカエと結婚し、一女に恵まれた。1959年(昭和34年)、協会の方針に疑問を感じて退会した。
1971年(昭和46年)、57歳の時に突如失踪し、家族を置いて年下の愛人(小堀鞆音の孫)に奔った。以後の活動は特定の画廊でのみ行い、世間との関わりが希薄化するにつれて世間から注目されることも少なくなった。1991年(平成3年)、進行性胃癌で死去。享年77。