尾竹竹坡

(おたけ ちくは)

尾竹 竹坡(おたけ・ちくは、明治11年(1878年)1月12日 - 昭和11年(1936年)6月2日)、は、明治から昭和期の日本画家。 (多くの美術史に、お「だ」けとあるのは誤り)

経歴

明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。本名染吉。幼時南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。明治24年(1891年)富山に移り、兄国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞挿画を描く。

弟国観が『小国民』の全国児童画の一等賞を得たことを縁に富山から同誌に挿絵を送るようになり、明治28年(1895年)には上京して川端玉章に入門。日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会等で受賞を重ね、人気が高まる。

明治37年(1904年)に国画会で戦争展覧会を開いて盛況、明治38年(1905年)には若手作家を糾合して大同画会を発足させ、国画玉成会へ合流する。

明治40年(1907年)の第1回文展に入選するが、明治41年(1908年)に岡倉天心と衝突して国画玉成会を弟の国観とともに退会。

明治42年(1909年)の第3回文展で『茸狩』が三等賞、明治43年(1910年)の『おとづれ』や明治44年(1911年)の『水』が二等賞と注目を浴びるが、台頭してきた学校派との根強い対立によって、大正2年(1913年)の第7回文展には兄弟そろって落選。

この落選の原因が美術行政制度にあるとして大正4年(1915年)には衆議院議員に立候補するも落選、多額の負債を背負い、濫作で自ら画名を落としていく。大正末には未来派に接近、前衛グループ八火会を結成するなど再起を試みるも、昭和11年(1936年)6月2日歿(58歳)。

2007年2月25日号の美術誌『Bien(美庵)』Vol.43(藝術出版社)の巻頭特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?』にて、尾竹三兄弟の次兄として紹介されるや、国際浮世絵学会の機関誌、三兄弟の地元の『新潟日報』や『北日本新聞』でも『Bien(美庵)』の特集を評価、全国に潜在していたファン、コレクター、研究家、美術館、骨董商から熱いエールと全国規模の回顧展を望む声が上がり、盛り上がりを見せている。

尾竹竹坡の作品所蔵美術館