田中一村

(たなか いっそん)

田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた日本画家である。本名は田中孝。

経歴

  • 1908年 - 栃木県栃木市に生まれる。
  • 1926年 - 東京市芝区の芝中学校を卒業する。
  • 1926年 - 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学したが、同年6月に中退。
  • 1931年 - それまで描いていた南画と訣別。
  • 1938年 - 千葉に暮らす
  • 1947年 - 川端龍子主催の青龍展に入選。
  • 1953年 - 第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選。(この年12月25日奄美大島が日本に返還される)
  • 1954年 - 第10回日展に出品するが落選。
  • 1955年 - 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
  • 1957年 - 第42回院展に出品するが落選。
  • 1958年 - 第43回院展に出品するが落選。奄美大島に渡る(50歳)。
  • 1958年 - 生計を立てるため大島紬の染色工として働き始める。
  • 1977年 - 9月11日没。享年69。
  • 2001年 - 奄美に田中一村記念美術館が開館。

明治41年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。

若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。

「大正15年版全国美術家名鑑」には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。

1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。超之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。

23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。

1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は栃木市の満福寺。

没後に南日本新聞やNHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。

鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館[1](館長中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

代表的な作品

現在確認されている作品数は下絵やスケッチを除いて600点ほど。そのうち約450点は田中一村記念美術館に所蔵されている(寄託作含む)。

初期

1908年から1938年までの作品

  • 白梅
  • 牡丹図
  • 倣蕪米
  • 倣聾米
  • 倣木米
  • 倣鐡齋
  • 農村春景
  • 蕗の薹とメダカの図、ほか

千葉寺時代

1938年に千葉に移り、1958年奄美大島に行くまでの作品。

  • 白い花(1947:青龍社展入選作)
  • 花と軍鶏(1953:襖絵)
  • 能登四十八種薬草図(1955:やわらぎの郷・聖徳太子殿天井絵)
  • 千葉寺の春の作品シリーズ
  • ザクロ図
  • 室戸岬、九里峡、由布風景、
  • ニンドウにオナガ(1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ)

奄美時代

1958年奄美大島に移った後1977年没までの作品

  • 素描シリーズ
  • 花と鳥
  • ダチュラとアカショウビン
  • 「奄美の杜(もり)」シリーズ
  • アダンの海辺
  • 高倉のある春景
  • 花と蝶、花と蛾、ほか

田中一村の作品所蔵美術館