平山郁夫

(ひらやま いくお)

平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日[1])は日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。

現代日本画壇の最高峰に位置する画家であり、その作品価格は画家の中で飛びぬけて高い。息子はカメの研究で知られる古代生物学者の平山廉(早稲田大学教授)。

人物

旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)3年在学中、勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で広島市への原子爆弾投下により被災。この被爆経験が後の「文化財赤十字」活動などの原点になっている。

第二次世界大戦後は実家に近い旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)に転校した。ここでは高橋玄洋と同級生となっている。卒業後、清水南山(祖母の兄)の強い勧めもあり東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。前田青邨に師事する[1]。

東京芸術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。

仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。

郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。

アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写や[1]、ユネスコ親善大使として北朝鮮の高句麗古墳群の世界遺産登録推進に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章受章、「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動を評価されるなどその活動は幅広く社会への影響も大きい。

教育者の立場から長年にわたって後進の指導に当たった。

年譜

  • 1930年 - 広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれる。
  • 1947年 - 東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。
  • 1952年 - 卒業とともに同校助手となる。
  • 1973年 - 東京藝術大学美術学部教授に就任。
  • 1988年 - ユネスコ親善大使に就任。
  • 1989年 - 東京藝術大学学長に就任。1995年まで務める。
  • 1992年 - 世界平和アピール七人委員会委員に就任。2005年まで務める。
  • 1992年 - 日中友好協会会長に就任。2008年まで務める。
  • 1994年 - 文化財保護振興財団理事長(現・文化財保護・芸術研究助成財団) に就任。
  • 1996年 - 日本育英会会長就任。2001年まで務める。
  • 2001年 - 再び東京藝術大学学長に就任し、2005年まで務める。
  • 2005年 - 日韓友情年日本側実行委員長に就任。
  • 2005年
    • 東京国立博物館特任館長に就任。
    • 平城遷都1300年記念事業特別顧問。
  • 2009年 - 脳梗塞のため東京都内の病院で死去。

栄典・表彰等

  • 1961年 - 第46回院展で『入涅槃幻想』が日本美術院賞(大観賞)を受賞
  • 1962年 - 第47回院展で『受胎霊夢』『出現』が日本美術院賞(大観賞)を受賞
  • 1964年 - 第49回院展で『仏説長阿含経巻五』『続深海曼陀羅』が文部大臣賞を受賞
  • 1976年 - 日本芸術大賞受賞
  • 1978年 - 第63回院展で『画禅院青邨先生還浄図』が内閣総理大臣賞を受賞
  • 1995年 - モンブラン国際文化賞受賞
  • 1996年 - レジオン・ド・ヌール勲章受章
  • 1998年 - 文化勲章受章
  • 2001年 - マグサイサイ賞受賞
  • 2002年 - 「文化交流貢献賞」受賞(中国政府より)
  • 2004年 - 「修交勲章興仁章」受賞(大韓民国政府より)
  • 2004年 - 朝日賞受賞

主な作品

絵画

  • 『仏教伝来』(1959)(佐久市立近代美術館蔵)
  • 『入涅槃幻想』(1961)(東京国立近代美術館蔵)
  • 『大唐西域壁画』(2000)(薬師寺玄奘三蔵院壁画)

著書

  • 『ぶれない』 2008年

平山郁夫の作品所蔵美術館