フェデリコ・ツッカリ

(Federico Zuccari)

作品

フェデリコ・ツッカリ『自画像』(1588年以降)フェデリコ・ツッカリツッカリとジョルジョ・ヴァザーリの共作『最後の審判』のディテールフェデリコ・ツッカリ

※モニターにより実際の色とは異なって表示されます。

フェデリコ・ツッカリについて

フェデリコ・ツッカリ(Federico Zuccari, またはフェデリーゴ・ツッカロ、Federigo Zuccaro, 1542年/1543年頃 - 1609年7月20日)は、イタリアのマニエリスム画家、建築家。イタリア国内外で活動した。

生涯

ツッカリはウルビーノ近郊のサンタンジェロ・イン・ヴァード(現マルケ州)に生まれた。

記録では、ツッカリの画家としての経歴は、画家である13歳年上の兄タッデオの下で働くためにローマに来た1550年から始まっている。ツッカリはローマ教皇ピウス4世のための装飾を完成させ、ヴィラ・ファルネーゼ(ファルネーゼ荘、en:Villa Farnese)フレスコ画の装飾を手伝った。ツッカリが関わったフレスコ画には以下のようなものがある。

  • ピウス4世の小邸宅の装飾(ローマ)
  • サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会(en:San Francesco della Vigna)グリマーニ礼拝堂(ヴェネツィア)
  • トリニタ・デイ・モンティ教会(en:Trinità dei Monti)プッチ礼拝堂(ローマ)
  • サン・マルチェロ・アル・コルソ教会(en:San Marcello al Corso)(ローマ)
  • オルヴィエート大聖堂(en:Orvieto Cathedral)(1570年)
  • オラトリオ・デル・ゴンファローネ(en:Oratorio del Gonfalone)(ローマ、1573年)
  • サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドォーモ(フィレンツェ、仕事を始めたのはジョルジョ・ヴァザーリ)

ツッカリはバチカンのパオリーナ礼拝堂(en:Cappella Paolina)の仕事の続きのために、ローマ教皇グレゴリウス13世にローマに呼び戻された。それからツッカリはブリュッセルを訪れて、そこでタペストリー織工のための実物大下絵の連作を仕上げた。

1574年には、イングランドに渡り、イングランド女王エリザベス1世、スコットランド女王メアリー、ニコラス・ベーコン卿(en:Nicholas Bacon)、フランシス・ウォルシンガム卿(en:Francis Walsingham)、ノッティンガム伯チャールズ・ハワード1世(en:Charles Howard, 1st Earl of Nottingham)らの肖像画の依頼を受けた。

この中には、アペレスの名高い作品についてのルキアノスの記述から着想した自身の絵『誹謗の寓意』のレプリカもあるが、元の絵にあった風刺は、ツッカリの廷臣の敵を指し示していて、これがローマからツッカリが一時的に国外に逃れた原因でもあった。

フィレンツェのピッティ宮殿では『2匹の犬と男性』の肖像画を、ローマのボルゲーゼ美術館では『天使たちと死せるキリスト』を描いた。1585年に、ツッカリはスペイン王フェリペ2世から、年2000クラウンの報酬で、完成したばかりのエル・エスコリアルの装飾の仕事を依頼された。

ツッカリは1586年1月から1588年暮れまでそこで働いたが、ツッカリの描いた絵は(ツッカリの前に仕事をしていたエル・グレコのもの同様)フェリペ2世に気に入られず、多くは塗り直された。とはいえ、別れは平和的だった。「我々は彼ではなく、彼を我々の元に送った人々を非難すべきである」とフェリペ2世は言った。ツッカリの後を引き継いだのはペッレグリーノ・ティバルディ(en:Pellegrino Tibaldi)だった。

1595年、ローマに戻ったツッカリはローマ教皇シクストゥス5世承認の設立勅許状を得て、アカデミア・ディ・サン・ルカを設立し、その初代校長になった。バルトロメーオ・カルドゥッチ(en:Bartolomeo Carducci)はツッカリの教え子だったと言われている。

同時代人のジョルジョ・ヴァザーリのように、ツッカリは美術評論家および美術史家を目指した。しかし、ツッカリの主著『L'idea de' Pittori, Scultori, ed Architetti』(1607年)はあまり人気を得られなかった。

ツッカリは1609年、アンコーナで亡くなり、死後まもなくしてカヴァリエーレ(騎士)に昇進した。

フェデリコ・ツッカリの作品所蔵美術館